小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~  その2

「木村殿、半年ぶりですなあ。いかがかな、その後、海軍伝習所の様子は・・・」

「はい、岩瀬様が江戸に帰られた後、取締を命ぜられましたが、私は船や海軍の事が何もわからず大変でした。ましてや伝習所の教授は皆オランダ人ばかりで、言葉が解らなく、かなり戸惑いました。でも、勝さんがいて頂き、本当に助かっています」

「ああ、勝麟太郎さんか、元気でおられるか。相変わらずわがまま勝手言っているのではないかな」

「はい、そんなところです」

「やはりなあ、あははっ」

「私は専ら生徒たちの生活環境の見直しをして参りました。最初は生徒の殆どが不平不満ばかり言って、風紀も何やら乱れておりましたが、彼らの寄宿があまりにひどかったので、新たに空き屋敷を借りて、そこを住居として整えましたら、なんとか航海訓練を真面目に学ぶようになって、ようやく落ち着いたところです」

長崎海軍伝習所とは、黒船来航以来、幕府は海防体制を強化するため西洋から軍艦の輸入を決め、その軍艦の操縦等を学ぶため創った士官養成機関のことである。これはオランダ商館長の勧めもあって設立したもので、場所は長崎西役所(現在の長崎市)にあった。

木村が岩瀬と伝習所の話をしていると「旦那様、失礼します」と声がして、奥の襖(ふすま)がすっと開いた。岩瀬の妻、まつ江がお酒の膳を運んできた。まつ江はそれを横に置き、しなやかな細い指を見せながら、丁寧に三つ指をついた。

「木村様ようこそお越し下さいました。ご無沙汰しております」

木村はその奥方の美しい容姿と流れるような優美な所作に心持ちうっとりした。

この七つ年上の奥方に、木村は恋心とは違う憧憬の様な気持ちがあった。

「これは、奥方様、お手間をお掛け致します。奥方様もお元気そうでなによりです」

それを聞いて、岩瀬は木村に盃を差し出した。

「まあ、硬い挨拶は抜きにして、久しぶりにお主と飲もうと思うてな。まあ、一杯いかがかな」

「は、頂戴いたします。」

盃を受けた木村は、いかにも誠実そうで笑うとどこか人懐こそうな優しい顔立ちだった。少し酒で喉を潤すとまつ江に向かって、

「これは、長崎から土産としてお持ちしましたカステーラという焼菓子です。」

「まあ、名前は聞いたことがございますが、見るのは初めてです。」

目をまるくして嬉しそうに言った。

「なんでも、卵と水飴を練ってつくってあるそうです。宜しければ、皆さまで早めに召し上がってください」

と包みを開いた。すると岩瀬も

「わしは以前長崎で食したことがあるが、甘くて、とても美味であったぞ」

と自慢気に言うと、

「まあ、あなた様はどうして、その時わたくしにも買って来て下さらなかったのですか」

少し頬を膨らませ、拗(す)ねた様な顔をしてみせた。岩瀬は頭を掻いて

「いや、これはつまらぬ事を申してしまった。あははっ」

まつ江の戯言(ざれごと)に岩瀬も笑って胡麻化した。「どうぞごゆっくり」とまつ江はかるく一礼して、奥に下がった。