小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その46

 当時のアメリカには大きな悩みがあった。それは人種差別問題だ。南部地方の市民は黒人を非人間扱いし、自分たちの自由な下僕とする奴隷制度を正当化しようとしていたが、北部側の市民はそれに対し強く非難し、将にアメリカは南北で分裂しようとしていた。特にアメリカの首都であるこのワシントンでもあちこちで人種差別が起因とされる暴動が起きており、市民はいつ始まるとも知れない南北戦争勃発の恐怖に皆が不安を感じていたのだった。

そんな折、今回の日本からの珍客はその恐怖から一時逃避する気持ちも強かったため、大勢のアメリカ市民は珍しさと共に使節団を大歓迎したとも考えられるのだった。

 

 四月二日、村垣の日記によると、この日パテントオフィス、百物館に行ったと書いてある。特許局といっても機械、武器、農具等の模型と共に剥製の鳥獣類、そして独立宣言など歴史的な記念物までも展示されていた。また、百物館というのは、自然史博物館のことのようだ。現在もあるこのスミソニアン博物館は、日本人が公式に見学した最初の西洋博物館である。

 まず、彼らをびっくりさせたのは、部屋の窓を暗幕で閉じ暗くすると、眼の前でいきなり放電実験をしたことだ。村垣は突如カミナリが目の前で青白く光る現象に、奇術を見せられたと述べている。

 色々な展示物がある中、村垣が目にしたのは明らかに日本の一般庶民が生活に使用しているものであった。「ニッポンコーナー」と書かれたブースには、婦人の打掛、白無垢の下着、刀剣、鍬、鋤、草履、煙管などが陳列されていたのである。実はこれらは以前ペリーが来日した際、持って帰った品々であった。

すると、同行していた新見従者の玉蟲左太夫が一瞬大声を上げ、顔をしかめた。

「こ、これは、なんと、人間の干物(ひもの)ではないか」

玉蟲がガラスケースの中に見たのは、茶褐色に変色したミイラが子供のものを含め三体並んで横たわっていた。佐野鼎はその横に掲げられている英文の説明書きに目を通した。

「なんとこの死骸は、千年も前のものだと書いてありますぞ」

「な、なんと、千年ですか? わが方の奈良時代にあたりますな」

「うむ、まだ肉や髪も残っているではありませんか」

 使節団にとっては見る物すべて驚きの連続だった。この時、アメリカ政府としては、長く鎖国をして盲目となっていた日本人に各施設を見学させ、欧米の文明を少しでも理解させようとする好意ある計画をたてていた。

 ところが、使節団の目的が批准書交換であり、新見の頭の中は何よりもそれを優先し、急いで幕府老中に報告する事だった。更に同行している目付の監視もあり一行の行動はかなり制限され、折角のアメリカの好意に対し積極的に受け入れてはいなかったのだ。

 しかし、そんな中、従者の加賀藩砲術教官の佐野鼎や仙台藩玉蟲佐太夫など若い武士は、貪欲に博物館、図書館、学校など見学し、何とか理解しながら知識を吸収していた。

 その佐野鼎は、博物館の意義を何となく感じ取っていた。まるで見世物小屋のようでもあるが、何のための展示か。この場所にくれば様々な動植物、科学、歴史、芸術、文化に触れることができ、誰もが平等に、多くの事を学べると考えた佐野は、徐々に教育の大切さを知り、西洋砲術、つまり戦の専門家である自分の人生に漠然と疑問を持つようになった。

 そして日本に帰った佐野は十一年後に現在の開成学園の前身「共立学校」を設立する事となったのである。因みに初代校長の高橋是清勝麟太郎の息子・小鹿と海外留学を共にした仲であり、後の第二十代総理大臣である。

 

 四月三日、村垣たち一行は批准書交換のため馬車で国事館へ向かった。今回は平服のままである。部屋に入ると国務長官レウス・カスが笑顔で握手を求めた。他に事務官が二人いるだけだった。

 批准書交換といっても、なんの儀礼もなく、机の上で条約書を取り交わした。この条約書は和文で大和錦の表紙に、紅の糸で日本綴じにしたもので、奥書に「源家茂」として第十四代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、更に外国事務閣老の名前(新見豊前守、村垣淡路守、小栗豊後守)のサインと花押を書いたものである。それにオランダ語の訳を添えて、黒塗の箱、銀箔、紅の紐付、紅綸子の袱紗に包んであった。

 アメリカ側は英文で、大統領ジェームズ・ブキャナン国務長官ルイス・カスとのサインがあり、同じくオランダ文を添えたものだった。互いが改めて確認したうえで、無事取り交わしを終えた。

 岩瀬忠震とタウンゼント・ハリスが下田沖のポーハタン号で交わした日米修好通商条約を仮締結してから一年九か月が過ぎ、ようやく日米の交易が正式に確認・同意され条約の効力が成立したのだった。

 

 その日の夜はオランダ公使の夜会に招かれ、そこで改めてブキャナン大統領と挨拶をした。その後は大勢の高官や下官と面会したが、さすがに多過ぎて閉口したが、徐々に慣れていく自分が可笑しかった。

 四月四日、例によって馬車で議会議事堂を見学に行った。建築当初の建物は、それほど大きくはなかったが、アメリカ合衆国の加盟州も大きく増えたため、1850年に両翼を大規模に拡張され、一行が訪れた時は中央屋根の大きなドームはまだ工事中だった。

 中に入ると、天井の高さにびっくりした。その下に大きな円形テーブルを囲み、四、五十人の男が一人の者が手ぶりを交え大声で話すのを聞いているかと思いきや罵声が飛び交っている。村垣は 

「何を言い合っているのか、さっぱりわからんが、まるで日本橋の魚河岸のようだな」

と隣の従者にささやいた。民主主義と議会制政治はまだまだ彼らには到底理解し兼ねるのだった。

 

 四月五日、海軍工廠と造船所を見学。車を降りると、ブカナン提督が出迎え、機械をつくる小屋に案内した。その小屋は、レンガで造った大きな棟が十ばかりあった。ここでは、単に船を造っているだけではなく、各種の部品や機械を造るのが目的であった。新見と村垣はただ機械の精密さに驚いていただけだが、小栗はここで一本のネジを拾って懐に納めた。これが、その後の日本の機械産業を大きく進歩させるきっかけとなるのである。

 小栗だけはすべての機械類が鉄を加工して出来ていく過程を興味深く見た。機械だけではない、パイプ、シャフト、歯車、ボルトから大砲、ライフル、さらには生活を支える鍋、釜、ナイフ、スプーン、フォーク、あらゆる生活用品まで作られていた。

 鞴(ふいご)が備えられ金属を加工するには、それを加熱する石炭が使われていた。また、金属を加工する機械の駆動は蒸気機関が用いられ、圧延、切断、穴あけ等の加工が容易に行なわれていた。また、金属同士を繋(つな)げるために『ネジ』というものが必要でその重要性を理解した。当時、日本の機械類はすべて木製だったのだ。

 

 小栗は、ここで、日本とアメリカとの差をまざまざと見せつけられ、日本にも海軍工廠に負けない造船所を造ること考えた。このことが帰国後、横須賀に造船所をつくることに繋がったのだ。しかし、それは直ぐには幕府に受け入れられた訳ではなく、実現したのは明治以降になってからの話である。 

 外にでて腰掛で休めと言うので、みんなで並んでかけた。するとブカナン提督やその他の者が後ろに立って、前の方に箱をすえて記念写真をとった。あとでその写真を一枚ずつ配ってもらった。

 ワシントン 造船所 前列 左から3人目より村垣、新見、小栗