小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その4
さらに岩瀬は言葉を続けた。
「ペルリが二度目に来航したときは軍艦九隻だったが、その時ペルリが言うには我々は五十隻で来たと言っておったらしい。そして、大砲を五十発以上撃って日本人を脅しおった。まあ、その時は叔父上様がペリーの恫喝に屈しもせず、次々と論破したと聞いておる。要するに最初のペルリの態度は相当、日本を威嚇(いかく)してきたという事だ。わしも三年前にロシアのプチャーチンと和親条約を交わしたが、やはりプチャーチンも最初は威圧的な態度で我々を脅してきおった」
岩瀬は盃をもう一度飲み干すと、
「よいか、木村殿、交渉で最大の武器は最初のハッタリだ。いかに相手より有利に立つかだ。これを覚えておいて損はないぞ」
にやりと笑いながら岩瀬が言うと、木村も盃を手にし、
「まるで、犬のケンカですね。いかに威嚇したほうが勝ちか、という訳ですな あははっ」
その時、また襖の奥からまつ江の声がした。襖が開くと今度は運ばれた膳にお酒といっしょにカツオの刺身が皿に盛られていた。
「おお、これはうまそうな刺身ではないか」
「はい、これは今日、佐吉に頼んで日本橋の魚河岸から持って来させたものです」
「木村殿、ささっ、遠慮せず箸をつけて下され」
岩瀬は勧(すす)めた。佐吉というのは、この屋敷に長年奉公している下僕である。
「これはごちそうですな。では、頂戴いたします」
一切れ口に含むと、これは旨いと満足げな笑みで舌鼓を打った。
「木村様、今夜はどうかお泊りになってください」
「いやそうもいかないのです。二、三日後には、また船で長崎に帰らなければなりませんので、今夜は宿に戻ります」
「そうでしたか。それでは、後ほど駕籠の手配を致しますので、もう少しお召し上がりください」
まつ江もお酌をしながら、
「そう言えば、先ほど佐吉がこのように申しておりました」
まつ江が岩瀬に向かって話し出した。
「なんでも、屋敷に帰ってくる途中、荷台が動かず困っているところへ、どこぞのお武家様が通りかかり、荷台を後ろから押して下さったので、大変助かったというのです」
今度は、チラッと木村の方を見て
「いまどき親切なおサムライ様もいるもんだ、と佐吉が喜んで話しているのを聞きました」
「ほほう」
岩瀬は感心したようにうなずいた。まつ江は身体を向きなおすと、
「そのお武家様というのは、ひょっとして木村様の事ではございませんか」
木村の顔をのぞき込んだ。すると少し照れるように
「確かに、ここへ来る途中、その様な事もございましたな」
「やはり、そうでありましたか。本当にあなた様は心やさしい方ですねえ」
とまつ江は木村の顔を見つめた。一瞬その美しい瞳にドキッとし
「いえ、当たり前のことをした迄です」
照れ隠しに「厠をかります」といってすぐさま廊下に出ていった。そのうしろ姿を見て二人とも顔を見合わせ、クスッと微笑んだ。
「まこと、木村殿は出来たお方じゃ」
「本当にその様でございますね」
中庭ではスズメが二、三羽、チチッ、チチッと鳴き交わしているのが聴こえる。すでに沈みかけた赤い夕日が障子を薄く染めていた。近頃は、めっきり日が暮れるのが早くなった。
行灯に燈を灯すと、部屋は明るさをとりもどした。まつ江が奥に下がると、入れ替わり木村が席に戻り坐りなおした。
「お主は昔から人の面倒見がよかったからのう。まあ、もう一杯どうじゃ」
「は、恐れ入ります」
「ところで、先ほどの幕府がペルリと交わした親和条約の話なのだが、アメリカと日本の解釈に相違があったのは存じておるかの」
「細かいことは知りませんが、その条約では下田と函館の二港を新たに開港し、もしアメリカ船が難破した時には、その船の乗組員を救い出すと云うことでしたね。それとアメリカ船への水・食料や薪の補給を保証することになったと伺っております」
「そこなのだが、日本側としてはあくまでその二つについてのみ条約と定めておったが、それに加え、彼らにとって最も重要なのは日本が開国に応じて貿易を認めたと心得ちがいをしていたことなのだ」
「つまり、アメリカはこの条約で、日本がやっと鎖国を解いたと勘違いした訳ですね」
木村は少し額の眉を寄せた。
「しかし、その後、本当の意味で日本が開国していないとわかると、今度は前にも増して強硬に開国を迫る様になったと云う訳だ」
岩瀬は持っていた盃をまたぐっと飲み干すと、
「実はのう、お主だから話をするのだが、わしは、老中堀田様から命じられ、既に下田領事館のハリスと通商条約について交渉を始めておるところなのだ」
いつの間にか岩瀬は話に熱がこもってきた。
ペリー来航 神奈川県 浦賀沖