小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その16

 将軍家定と篤姫は、慶福を後継ぎにする前段として、養子として迎えた。徳川慶福(幼名菊千代)は十二代将軍徳川家慶の弟で紀州藩徳川斉順の嫡男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれた。しかし、父斉順は慶福の生前すでにしている。その後慶福は次の紀州藩徳川斉彊(なりかつ)の養子となったが斉彊も三年後に死去。その為、慶福はわずか四歳で家督を継ぎ紀州藩主となった。因みに慶福の「慶」は将軍家慶から賜った名である。慶福(家茂)は幼い頃より聡明で、幼少の頃こんな逸話がある。

 慶福がいつもの通り、書道指南役・戸川安清(やすずみ)と並び机で書道を習っている時のことである。普段は真面目に書取りの勉強をしている慶福だったが、突然、指南役の戸川に頭から習字用の水を浴びせ、大声で笑うと「後は良きにせい」と言って遊びに行ってしまった。それを見た家臣のひとりが「何たる行儀の悪さだ」と言って嘆いた。ところが水を頭から浴びせられた戸川が怒るどころか、「殿はなんとお優しい方だ」と感激にむせび泣いたという。

実は、戸川は既に七十歳を越え頻尿を患っていたが、当時すでに家督を受け継いだ若殿の前で失禁した事に恥じ、身動きできなくなっていた。それを察した慶福は、わざと水を掛け、失禁を覆い隠そうとしたのだった。

 江戸城本丸御殿の表向と呼ばれるエリアがあり、その南側に大広間がある。そこへ行くには中庭を横に望むL字型の廊下がある。あの忠臣蔵で有名な「松の廊下」である。その廊下の突き当りに大広間が現れる。書院造りの大広間の床には上段、中段、下段と僅かな段差があり、二十八畳の上段の後方には大きな松と二羽の鶴が見事に描かれている。その右横には違い棚と天袋をあしらった床の間がある。床柱は桧、框(かまち)は黒檀、欄間にも見事な透かし彫りが施されてあった。

安政五年四月二十三日、将軍家定を前にして御前会議である。評議を重ねていくが、家定は殆ど寡黙を通していた。評議も終わりかけた頃である。家定がおもむろに口を開いた。

「この度は重要な人事を申しつける。彦根藩井伊直弼殿を大老に任命致す。したがって、老中以下家臣の者は、大老井伊が申すことはわしの言葉と心得よ。詳細は老中首座堀田正睦より説明いたす。以上じゃ」

突然の人事に、まず驚いたのが老中松平忠固だった。忠固は井伊に大老就任を持ち掛けた男だ。

 しかし、その後、井伊が忠固になびきそうもないと知ると、福井藩松平慶永(春嶽)に対し同様に大老就任を奨めて、将軍家定に提言していたのだった。更に忠固が驚いたのは、いつの間にか将軍家定が井伊に全幅の信頼を置いていたことであった。いずれにしても、これからは大老井伊直弼が絶対権力を手にしたという事実である。この時、井伊直弼は四十三歳であった。

 大老とは、臨時の職ではあるが、幕府の中では、老中や若年寄も束ねる最高の地位である。この彦根藩井伊直弼大老に就任するということは、現代の大企業に例えれば、地方の支店長が、本社の常務や部長を飛び越えて、いきなり専務になるというような異例な人事であった。

井伊家は徳川家康を支えた徳川四天王のひとりで、戦国時に「井伊の赤備え」と言われた井伊直政から代々仕えた家臣であり、歴代で大老職となったのは、十二人中なんと七人もいる。

 井伊直弼彦根藩の十一代藩主井伊直中の十四男として生まれ、当初は藩主になる可能性はほぼ無く、家柄は良いが「埋木屋」と名付けた屋敷で質素に暮らし、そこで禅、和歌、居合術、能、茶道などを修練していた。余談だがこの時のあだ名が「茶歌(ちゃか)ぽん」という。茶道で知られる「一期一会」とは直弼が幕府の茶会で生み出した言葉である。

この頃、和歌を通じ後に「井伊の懐刀」となる長野主膳と親しくなるのだが、その長野は有名な国学者であった為、多くの事を学ぶ事ができた。また、公家との人脈が広かった為、直弼も朝廷との交流が出来るようになったのである。その後、彦根藩では、直弼以外の兄弟がすべて死去か他家への養子となったため自分でも思ってもいなかったが三十六歳で彦根藩主となり江戸彦根藩邸に出向いたという経過である。

彦根藩主  大老井伊直弼