小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その29

 安政七年一月五日、出帆の日が近づいているというのに、勝は自宅で高熱をだして床に入っていた。年明け早々風邪をこじらせてしまったのだ。お民が部屋に入り「木村様が見舞いに来た」と伝えると、勝は死んだように寝ている。少し薄目をあけて、そうかいと言ったが、またすぐに目を閉じてそのまま寝てしまった。木村は、お民から勝の具合を聞くと「お大事に」と心配そうに言ってそのまま帰っていった。

翌日、少し熱が下がると、お粥だけはなんとか食べる事ができた。

「お民、駕籠を呼んでくれ」

と出掛ける身支度をしながら言った。お民が心配そうに

「そのお身体でどこに参るのですか」

「ああ、ちょっと築地まで出かけてくる」

勝は駕籠が来る間、また横になってしまった。

 小雪がちらつく中、駕籠は岩瀬忠震の屋敷に着くと、駕籠かきも心配そうに言った。

「旦那、着きましたぜ。少し顔が赤いですが大丈夫ですかい」

「ああ、用事を済ませたら、すぐ帰るから悪いけれど勝手口で茶でも飲みながら待っていてくれ」

 岩瀬との出会いは長崎で伝習所開設の時が最初で、今日会うのは、昨年の八月以来だった。

 岩瀬は昨年の九月、井伊直弼の下命によりフランスと修好条約調印後、それを最後に作事奉行も御役御免となり更に蟄居(ちっきょ)を命ぜられていたのだった。本来、外部の人間とは謝絶の身なのだが、勝は承知で会いに来たのだ。しかし、客間で面会するわけにもいかず、庭先に回って外から声をかけた。

「岩瀬様、ご無沙汰しております。勝です。お声だけ拝借できますでしょうか」

すると、障子がわずかに開き中から少しかすれた声がした。

「おお、勝殿か、久しぶりに勝殿の声が聞けた。元気でおられるか」

嬉しそうな返事が返ってきた。

「岩瀬様のご尽力で、この度やっとアメリカに行くことが出来そうです。私は遣米使節団の随行船で木村さんといっしょに咸臨丸で渡米する事となりました。必ずやお役目を果たして帰国したいと思います。今日は、一言ご挨拶に参りました。どうか岩瀬様もお元気で」

「わざわざ、お越し頂いたが、こんな状態で話もままならぬ。面目ない。ただ無事を願っています」

「はい、有難うございます」

とだけ言って早々に勝はまた駕籠で自宅に帰って行った。

 

 一月十一日、風邪の熱はいまだに残っているが、床に臥せっている程ではなかった。医者嫌いな勝も今回は珍しく医者の言付けを守り薬も決まった時刻にきちんと飲んでいた。お民に子供たちを部屋に来るようにと言いつけた。お民と四人の子供たちは勝の前に行儀よく座り、父が何を言うのか顔を見ている。勝も四人のそれぞれの顔を順番にじっくりと見たが、何も言わず、

「お民、ちょっと品川に行って船をみてくる。昼には帰る」

と言って出かけた。しかし、昼過ぎになっても帰って来なかった。その代わり操練所の小者が来て、

「先生の御行李を取りに伺いました」と勝の荷物を受け取ると何も言わず帰って行った。

お民は何となく察しが付いていた。心の中で「御無事で」と呟(つぶや)いた。

木村忠震

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その28

 十二月に入り、一緒に同船することとなったブルック大尉らが、品川沖で出帆を待つ観光丸を視察した。観光丸は十年前にオランダで建造された船だが、幕府が所有している蒸気船の中で最も古く、老朽化していた。ブルック大尉は、一目見るなり

「この船でアメリカへ行くのは無理だ。ほかのスクリュー船に変えて欲しい」

軍艦奉行の水野に訴えてきた。

 ブルック大尉の説明で、水野と井上も確かに外輪船の観光丸では遠洋航海は向かない、冬の荒れた海を航海することは無理と判断した。仕方なく、また朝陽丸に変更することにした。勝が提言したことが今頃になって、やっと受け入れたのであった。

 勝が怒るのは当然である。その時のことを「万事甚(はなは)だ不都合ならん」相当憤慨した事が、勝の妹順子の夫である佐久間象山(西洋砲術家)への手紙に書かれている。

 しかし残念ながらこの時、朝陽丸は少し前に長崎に向けて出航したばかりだった。そして、神奈川に碇泊していたスクリュー船は咸臨丸だけだった。性能は朝陽丸とほぼ同じである。こうして、コロコロと随伴船が検討される中、年の瀬も押し迫った安政六年十二月二十四日、最終的に観光丸から咸臨丸に変更が決まったのである。

 

 咸臨丸の主な性能は次の通り

建造元 オランダ製(幕府が十万ドルで発注、竣工安政四年 航海時は建造して三年目)

重量  六百二十トン

全長  約四十九m   幅 約九m

出力  百馬力   

速力  六ノット(一ノットとは一時間に一海里(千八五二m)進む速さ)

燃料  石炭   船材 木

 

 ところが、再び荷の積込み命令を受けた水夫や火焚(ひたき)たちが激怒したのだ。無理もない。観光丸の不具合修理をやっと済ませ、大量の荷物の積込み作業が夜を徹して行われ、作業終了直前だったからである。

「冗談じゃない。アメリカ人が一言言っただけで、急に船を変更するなんて許さねえ。俺たちをまるで馬や牛のようにこき使いやがって。俺たちは殆ど徹夜で荷を観光丸に運び込んだんだ。馬鹿にするのもいい加減にしてくれ」

 怒りは相当なものだった。もう船から降りると言い出す者さえいた。水夫たちが、三度目の荷物の積替え作業がどれほど重労働だったかは、その量をみれば想像が出来る。

米     十一トン

水     二十トン

醤油    二石三斗

焼酎    七斗五升

味噌・香物 各六樽

砂糖    七樽

茶     五十升

その他に、小豆、大豆、胡椒、唐辛子、麦、かつお節、梅干し、酢、塩、豚、鶏、家鴨

石炭    五十トン  その他 灯油、ロウソク、炭、薪、麻、シャボン 等々

 勝もさすがにこの時は、水夫たちをすぐに宥めることが出来ない。そこで勝がとった方法は意外だった。勝はあえて水夫たちを説得する事は全くしなかった。それどころか、その日以来、勝はある覚悟をもって二、三日仕事を一切しなかった。これに困ったのは木村だった。木村は慌てて水夫小頭の曽根仁作を呼び出し、事情を話した。

「小頭、勝さんが怒って、あれから全く仕事に出てこなくなってしまった。あれ程、アメリカに行きたがっていたのに、お役目を辞退されるなどと申されたが、いったいどういう事だろう」

 曽根はそれを聞いてびっくりした。木村や曽根は勿論のこと、今回乗組員に選ばれた殆どの水夫は長崎海軍伝習所で勝と長年苦楽を共にしてきた者ばかりだった。それだけに勝が念願だった渡米を止めると言った事は、かなりの衝撃だった。

「俺たち水夫や火焚のことを一番わかって下さっているのは勝先生だけだ。その勝先生が出航間際でやめちまうなんて、そんな事あり得ねえよ。わかった。俺たちが悪かった。木村様、何とか勝先生を説得して、またおいら達と行くって言ってもらうよう、お願い致します」

 曽根は涙ながら訴えた。その数日後、勝が再び船場にやって来た時は、水夫全員が両手を挙げて大喜びした。長崎時代から水夫たちと信頼関係を築いていたからこそ出来た勝の行動だった。

 更なる課題が乗組員の中で起きた。役職名が軍艦奉行・総監の木村と軍艦操練所教授方頭取の勝とは船内での立ち位置が微妙であったのだ。本来、船を運行する場合、総責任者は船将であるが、このふたりのどちらが総責任者なのかも曖昧だった。木村の方が役職としては上なのだが、船に関しての知識は殆ど無いに等しい。船の運転、針路、その他海上の指示は勝の方が適していたからである。つまり、乗組員たちは、指揮権が誰にあるのか分からないので、命令系統に混乱を生じていたのだ。

 しかし、勝としてはアメリカまでの航海を無事に達成する事が第一だった。役職で揉めるような馬鹿な真似は絶対したくはないのだ。木村さんの立場も充分理解している。そこで、勝は「船中申し合せ書」という船内の規則を定めた。

 

・船内で一日に一人当たりが使用する水の量と使用目的を定め、無駄使いを固く禁ずる

・衣服について汗を掻いたり、雨や雪で濡れた場合、速やかに着替え清潔な身なりに努める

・火鉢など火の始末に充分注意をして、火事など絶対起こさぬよう注意する。

・食物で腐ったものは速やかに捨て、酸味を生じたものを口にしてはならない

・艦内で病人を発生させないための心配りと船上の共同生活の秩序を守ること

・水夫に命ずる時は、あくまで公用のみとし、私用で命ずることを禁止する

・この規定は、航海上、身分の上下に関係なく全員が厳守すること

そして、あくまで木村総督が総責任者であり、船の運航上問題が発生した場合は皆の意見を聞き、最終的に勝が判断するとも伝えた。そこで、正式に勝が艦将であると皆が納得した。

 乗組員の人数も決まった。日本人九十六名、ブルック大尉含めアメリカ人十一名、総勢百七名。咸臨丸の定員が八十五人乗りだから、かなりの定員オーバーである。しかも大量の食糧、燃料に加え、大砲が十二門も搭載している。これだけでも不安材料は充分あった。

ブルック大尉

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その27

 九月一日、改めて人選をした結果、正使に新見豊前守正興、副使に村垣淡路守範正となった。

ふたりとも、外国奉行神奈川奉行の兼任を任命されたばかりの頃であった。加えて遣米使節目付(監察)として小栗豊後守忠順の三名が正式に決定した。

 この三人はいずれも一橋派とは無縁の家臣であえて選出した。特に新見と村垣の二人は事なかれ主義で帰国後も歴史上の表舞台に名を出す人物ではなかった。ちなみに村垣範正は、八代将軍吉宗紀州から連れてきたお庭番の家筋で、各地の情報収集や分析をやらせれば非常に優秀な人物だったと云う。

 木村が第十四代将軍徳川家茂から正式に遣米使節随伴を任命されたのは十一月に入ってからだった。

 早速、木村が勝と相談し、彼らに付随する乗組員の編成に取り掛かった。主には長崎の伝習生たちから選りすぐり、水夫や火焚ボイラー士)なども徐々に決まっていった。この乗組員の名簿は築地操練所の大広間に派遣者の名前が掲示された。(十一月二十四日)

主な乗組員は次の通りであった。

 

軍艦奉行(総督) 木村摂津守喜毅 (三十一歳)

船将(艦長)    勝麟太郎義邦 (三十八歳)

砲術方・運用方  佐々倉桐太郎  (三十一歳)

運用方       鈴藤勇次郎  (三十五歳) 浜口興右衛門英幹  根津欽次郎勢吉

測量方       小野友五郎  (四十四歳) 伴鉄太郎 松岡磐吉 他一名

蒸気方       肥田浜五郎  (三十一歳) 山本金次郎 他二名

通弁方       中浜万次郎  (三十四歳)

奉行従者      福沢諭吉   (二十七歳) 他四名

公用方二名、医師四名、船大工一名、鍛冶役一名、水夫六十六名   計九十四名

 

 しかし随伴船においては、二転三転した。しかも理不尽な事ばかり続いたのである。

 一旦決まった朝陽丸だったが、永井尚志から引き継ぎ、小普請奉行から軍艦奉行となったばかりの井上清直(元下田奉行)から、少しでも多く正使の荷物を引き受けるには積載量の計算から一回り大きい観光丸にしたいという意見を出し急遽幕府の了承を得た。観光丸は長崎海軍伝習所開設の際オランダから寄贈された外輪船(船側面水車型)である。 

 

 この直後、横浜に滞在中のアメリカ測量船フェニモア・クーパー号の船長ブルック大尉から乗組員十名をこの随行船に乗せ帰国させて欲しいと言ってきた。更にブルック大尉からは、その代わり日本人乗組員に航海術を学ばせる事を条件にしたいという案を出してきたのだ。クーパー号は日本周辺の測量中、暴風雨のため難破し、船を失い帰国する船便を待っていたのだ。

 もともと幕閣は米国へ派遣する別船を認める当たり、日本人だけでは危険すぎるとして航海経験豊富な米国の海軍関係者を同乗させることを条件とした。ブルック大尉一行はその役割を果たすには打って付けの存在だったのだ。ブルック大尉もその役割を快く受け、日米友好のために自分たちの力を貸すことに同意したのだった。

 だが、攘夷思想の高まる中、血気に逸る乗組士官たちは外国人の手を借りて航海するのを嫌がった。そこで、船将と決まった勝麟太郎は士官たちを集めて、啖呵を切った。

「お前さんたち、ケチな了簡で意地を張ってちゃあいけねえよ。この船は何としてでも日本人だけの腕でアメリカへ行くんじゃねえのかい。あいつ等においら達の実力を見せるいい機会じゃねえか。あいつ等は、ただの見物人だ。お客さんだよ。黙って乗せてってやんなよ」

と言って皆を渋々納得させた。勝にとっては、念願だったアメリカ行きが実現し、数人のアメリカ人を乗船させる事などは、それ程気にならなかったのだ。

 しかし、勝にとっての不満は、随伴船が朝陽丸ではなく、観光丸になった事だった。以前、旧式で老朽化した観光丸ではなく、艦の性能や航海上の安全から最新型のスクリュー船朝陽丸の方が適していると勘定奉行や上役の井上清直に折衝したが、この頃勝はまだ身分が低くこの事を、まるで理解してくれなかったのだった。 

 一方、総督になった木村喜毅も士官たちの不満を感じ取っていた。乗組員たちが、今でも長崎海軍伝習所時代の低い身分のままで、これから命を懸けて決死の航海に臨もうとする者たちの待遇が一向に改善されず不平不満を口にするのは当然である。これでは士官たちの士気が上がらない。これに対し木村は強く幕府に待遇改善を求めたが、幕府内も財政が困窮であった為、頭の固い役人がこれを了承するはずが無かった。

 

 そこで、思案した木村は、手当を与えるための資金を自前で捻出する事に決めたのだ。その行動とは、何と木村家に代々伝わる書画骨董を残らず処分して三千両の大金を用意したのだ。この陰には木村の良き理解者である父の存在が大きかった。父の木村喜彦は浜御殿奉行で将軍家の庭(現在の浜離宮)の管理を掌り身分は格式の高い旗本であった。その後も木村は、幕府と更に交渉を重ね、なんとか渡航費用として五百両を下賜されたのである。そうして、その金を乗組員の働きや貢献度に応じ、その都度恩賞を与えることにしたのだった。

   副使に村垣範正(副使)    新見正興(正使)    小栗忠順(目付)

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その26

 勝が江戸に帰り着いたのは一月十五日だった。

勝にとっても江戸帰国は伝習所開設以来だから、実に五年ぶりなのである。家族の顔も久しく見ていなかった。勝は品川に着くと、お世辞にも立派とは言えない赤坂田町の屋敷に帰った。屋敷といっても借家である。薄っすら雪が降った後だったが、玄関はきれいに掃き清めてあった。妻のお民が六歳になる末っ子の四郎と共に出迎えた。お民の目は僅かに潤んでいた。

「お帰りなさいませ。長崎でのお役目お疲れ様でございました」

「変わりはないか。四郎、具合はどうだ」

次男の四郎は幼い頃より病気がちだった。勝には四郎を含め四人の子がいる。

「相変わらずです。少し咳が出る程度ですが大丈夫です」 

「小鹿(ころく)はどうした」

「お母さまと近くの出店に行きました。お孝とお夢もいっしょです。もう、そろそろ戻る頃です」

 その日の夜は、久しぶりに近所の知り合いも集まり、賑やかに過ごした。皆が帰り、子供たちも床に就いた後、勝はお民に向かい、しみじみと言った。

「お民、おいら今度、軍艦操錬所教授方頭取よ。来年あたりアメリカに行くことになると思うよ。お前にも本当に苦労かけたな。これからは、もう少しましな屋敷に移って楽をさせないとバチが当たるなあ」

 その後しばらくして、江戸幕府蕃書調所(洋学研究所)の杉亨二が世話をしてくれた赤坂氷川神社の西側にある武家屋敷に家族共々引っ越した。田町の屋敷に比べるとかなり広くゆったりした住居となった。

尚、木村喜毅も伝習所閉鎖に伴い、二月には江戸に帰り目付に復職した。

 

 江戸は、勝が五年前長崎に行った頃の状況とはまるで違った。当時は将軍家定が病弱ということもあり、老中阿部正弘が幕政の総責任者であり、安政の改革を進めていた。海防の強化、人材育成、各研究機関の設立、海外技術も積極的に取り入れようとしていた。長崎海軍伝習所もその一環であった。

 しかし、老中阿部が亡くなった今、幕府を仕切っているのは大老井伊直弼である。井伊は同じ開国派でも積極的に海外の文物を取り入れようとする考えはなく、むしろ、日本には国学があり、洋学などやる必要がないという考えだった。これは勝の考えと真逆であった。

 江戸に戻った勝は、築地の講武所の中にある軍艦操練所で「軍艦操練所教授方頭取」という役職で幕府海軍の教育を任じられた。そこで勝は長崎時代の上司である永井尚志の下で海軍訓練生を相手に軍艦の操舵術だけでなく洋式調練、砲術などの教授をしていた。永井もこの二月に外国奉行から軍艦奉行に異動となった。この頃の軍艦操練所は既に幕府海軍教育の中核施設となっていたのである。

 

 六月に入り、その日も梅雨が続く小雨の中、勝麟太郎は、赤坂の屋敷に帰る途中だった。虎ノ門を過ぎたあたりで物陰から急に男が飛び出してきた。頭を手拭で頬被りし、着物の裾を尻に絡(から)げた如何にも怪しい浪人風の男であった。勝は一瞬、盗人か物取りかと思い傘を捨てると、腰の刀に手をかけ鯉口を切った。

「異国と手を結ぶ奴は許せねえ」

と叫ぶと男は脇差を抜き斬り込んできた。

 瞬間、勝は刀を抜くと同時に右に払い、踏み込んでそのまま刀の反りで相手の小手を打った。男は、たまらず刀を地面に落とすと、そのまま逃げ去ってしまった。

 近頃、むやみに攘夷を口にし、刀を振り回す輩がいると聞いていたが、その類いだろうと勝は思った。勝も十代の頃に直心影流の島田虎之助の道場に通い、相当腕を磨いていたのだった。因みに勝はその後の生涯で二十回ほど命を狙われたという。

 安政六年八月、外国奉行の永井尚志と水野忠徳が、昨年ハリスと締結した日米修好通商条約に基づき、批准書交換を目的に遣米を幕府に建言した。批准書とは、仮条約に対し日本とアメリカが国家として正式に確認及び同意を示す書類のことである。つまり国家代表として、日本側の将軍徳川家茂アメリカ大統領の名の元で交わす重要な約定である。

 この事は、ポーハタン号で岩瀬忠震とハリスが米国ワシントンで実行すると約束した事項であった。

この批准書交換については、ハリスからも日本人使節団を乗せ渡米するための軍艦ポーハタン号を準備しているので、早くまとめるよう要請が出ていた。

大老井伊直弼もこれを承諾しており、具体的な日程と人選を早急に決める事となった。幕府内部では、外国奉行の水野忠徳を中心に評議が行なわれ、意見が激しく交わされていた。

「我らは使節団を八十名と伝えた処、ハリスからポーハタン号には多数のアメリカ人が乗っている故、もう少し人数を減らせぬかと云ってきておる。如何致そうか」

「それならば、別船を仕立て、ポーハタン号に随行させるという手もござろう」

「成程、その別船に本船に乗る人数分の一部と荷物を引き受けることも出来るな」

しかし、これに烈しく反対する者もいた。

「我が幕府はご存じの通り、財政は非常に厳しい状況にある。その様な時に莫大な金を掛け別船を出そうなどと甚だ論外でござる。その資金をどこから捻出するおつもりか」

また、別の反対意見もでた。

「わずか三年程度、長崎で航海技術を学んだといっても、近海での訓練だけであろう。いきなりわが国だけで太平洋を渡るなど到底無理な事ではないのか。陸地が見えない洋上では位置確認も困難であろう」

すると、水野忠徳が

「遠洋での航海技術は充分に学んでおる。それに日本の海上での測量技術は高水準に達している。何よりも、以前から申し上げている通り、遠洋航海は海軍操練所の悲願でござる。これは我が国の海軍の技量を試みる、よい機会ではござらぬか。是非とも納得頂きたい」

更に言葉を足して、

「別船はあくまで日本人のみで船を操り渡米することが重要だと存ずる」

と強調した。まだ別船に不満な者もいたが、他の老中たちからは賛同の声が多かった。

「うむ、万が一、正使に何か支障が起きた場合、代わり得る副使を乗せる船としよう」

「では、長崎海軍伝習所で航海術を学んだ者たちが適任と思われるがいかがでしょう」

そこで水野が人選について提案した。また随伴船となる別船に最新型スクリュー船の朝陽丸を指名した。

「まず、別船の副使を長崎海軍伝習所二代目所長の木村喜毅を推挙する。そして、軍艦操練所教授方頭取の勝麟太郎を艦長とするのが、適任かと思われる」

 

 しかし、水野はこの評議の後、横浜で起きたロシア海軍士官殺害事件の責任を問われて、十月二十七日に軍艦奉行に異動。更に十月二十八日には閑職である西の丸留守居に左遷された。その為、水野はポーハタン号での遣米使節団には加われなかったのである。当初、正使を外国奉行水野忠徳とし、副使を永井尚志に決めたが、ふたりとも一橋派であった事を理由に処罰対象となったのだ。

 勝麟太郎

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その25

  遣米使節

 安政五年十月、長く続いた将軍継承問題も落ち着き、井伊直弼の支えもあり第十四代将軍には徳川慶福が就任し、名を家茂(いえもち)と改めた。

 その年の十二月長崎海軍伝習所に新たな問題ができた。開設後、安政二年十二月頃は伝習生が百二十八名となり、活動も活発であったが、安政四年三月築地に軍艦操練所が新設されると、総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地へ移動となったため、今では伝習所もたった四十五名となった。 

 そんな中、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する税制負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は築地の軍艦操練所に一本化されることが決まったのだ。

 南国長崎といっても年の瀬、師走ともなると、流石に海風が冷たくなっていた。

勝麟太郎はこの時、既に交易日米修好通商条約に基づいて批准書交換のため遣米の計画があることを今年七月外国奉行に就任したばかりの永井尚志から聞いており、何としてでもアメリカという国を自分の目で見たいと永井に嘆願していたのだ。

「木村さん、さっき咸臨丸が江戸に向かって廻航していきました。年開けにはすべての船が、この伝習所から居なくなってしまいますね」

勝は寂しそうに言った。

「そうですね。この伝習所もとうとう閉鎖が来年の二月に決まったそうです」

 木村はあたりを見回しながら、フッと溜息をついた。この数年間の出来事や伝習生の泣いたり笑ったりした顔が次々と頭に浮かんだ。長いような短いような三年間だった。

 木村にとって最も名残惜しいのは、オランダ人のポンペと分かれることだった。医学は勿論の事、基礎科学や物理学などあらゆる学部を熱心に教えてくれた。先日のコレラ蔓延の時は無知な日本人の流言飛語と罵倒にも屈せず、懸命に治療に当たってくれた。こういった外国人から色々な事を学べる日本人は幸せだとも思った。

 伝習所に携わったオランダ人の殆どが帰国の準備をしていたが、ポンペだけは松本良順といっしょに医学伝習所に残った。記録によると、ポンペから直接教育を受けた者が一三三名、治療を受けた者が一四五三〇名いたと云う。日本人から惜しまれながらもポンペが帰国したのは、それから二年後だった。

 

 年開け早々安政六年一月五日に勝麟太郎が朝陽丸で江戸に帰ることとなった。長く生活を分かち合った伝習生たちも同乗している。伴鉄太郎、松岡盤吉、安井畑蔵、他三名。その他にも水夫たちが十数名いた。皆、一度も帰郷していない者ばかりだった。

 その五日の朝、朝陽丸は滑るように出航し長崎を後にした。空は晴天だった。普段見慣れているはずの長崎湾が一層美しく見えた。翌日、下関を抜け瀬戸内海を進むと讃岐の塩飽島(しわくじま)が見える。ここは大小二十八の島々があり、昔はこの辺りの海を海賊衆が荒らし回ったらしい。伝習所の水夫の中にはこの塩飽島出身が十五人以上いた。この水夫たちも一度も帰郷していなかったので、予定にはなかったが、半日ほど碇を降ろすことにした。

「いいか、十日の朝には出発だ。お前たち、それまでには戻ってくれよな」

と言うと水夫たちは躍り上がって喜んだ。勝は、それぞれの端船(ボート)に乗って嬉しそうに里帰りする姿を甲板から見送った。

 翌日、まだ朝陽が上がる前の薄暗い中、水夫たちが思い思いに船に戻ってきた。満足そうな笑みを浮かべ帰ってきた者もいれば、きっと家族との別れが辛かったのだろう。まだ目を赤く腫らして戻ってきた者もいた。

「富蔵、どうだ、かかあは元気にしておったか」

佐柳島の富蔵に、勝は優しく声をかけた。

「勝先生、ほんにありがとのう。おれのおっ母も元気でおったでな。夕べは倅(せがれ)が嫁もらう云うんで、みんなで御馳走食うて祝い酒も飲んできたさね」

「ほほう、そりゃあ良かった。よかったなあ、富蔵」

勝は我がことのように喜んだ。

 十二日の夜明け、艦長室で寝ていた勝は船が大きく揺れるのを感じ、目を覚ました。甲板に出ると、いつの間にか降った雪で辺りは真っ白になっていた。強い風が四角い帆をバタバタと煽っていた。操舵室に入ると伴が必死で舵を取っており、鈴藤も松岡もそこに居た。

「これから、益々激しくなりそうだから、どこか近くの港に退避したらいかがですか」

「いいかい、理屈と実践は大きく違うものよ。これを乗り切ってこそ腕が上がるってもんだ」

 風が更に強くなり、皆、両足を踏ん張っている。立っているのがやっとの状態だ。そこにまた大きな揺れがきた。その拍子に勝は立っていられず、ひっくり返ると、どこかにコロコロと転がっていった。

 鈴藤が舵を代わろうと言ったが、伴の両手は極度の緊張で指先まで固まっていた。やっとのことで手を外し鈴藤と交代する事ができたが、伴はその場に座り込んで、はあはあと激しい息づかいが止まなかった。

勝が腰や腕を擦りながら、ここはどの辺だろうと聞いた。松岡は落ち着いて測量計をにらみながら、

駿河沖ですね。もう少しで御前崎あたりと思います」

 御前崎が近いとすれば、この辺一帯は遠州灘である。太平洋沿岸の中でも気候の荒れやすい場所で、夏は台風の被害が多く、冬は強い西風が吹き波も荒いため、避難港が少なく海の難所と言われている。

 大きな波が次から次と船を襲ってくる。メリメリと大きく船が軋む音がした。先ほどまで雪で白かった甲板も波で洗い流され、ますます揺れが大きくなった。風も渦を巻くように更に強くなった。水主小頭の善三郎が全身波をかぶってずぶ濡れになり這うようにやって来た。

「波が高くて、船が全く前に進みません。このままだといつ沈没するかわからねえです」

 勝も甲板にでると、波で全身びしょ濡れになり、端船(ボート)をすべて切り離せと鬼のような声で水夫たちに指示した。その時、またざざあっと大きな波が勝を襲った。そのまま樽の様に転がった。勝は起き上がると近くにあった太い綱で帆柱に自分の身体を縛り付け、ありったけの声で水夫たちにあれこれと指図した。まるで怒髪天を衝いた様な顔であった。

 どの位時間がたったのかわからない。雪も止んで雲の隙間から少し陽が差してきた。相変わらず風は強いが、幸いにも追い風となったため、船はすでに大島近くまで来ていた。誰もが全身ずぶ濡れとなって身体も冷え切っている。すぐに甲板にいた水夫たちを全員交代させた。勝もよろよろしながら船内に入ってすぐに濡れた着物を着替えた。朝から何も口にしていない。

すると、水夫の大助が

「先生、熱いお茶を一杯、やんなせい」

と言って茶碗を差し出した。

「こんな暴風雨の中でよく湯なんか沸かせたな」

「へい、火鉢にまたがって手でやかんをぶら下げ温めました」

にこにこしながら答えた。

「ありがとよ、操舵室の奴らにも急いで茶をやってくんな」

そう言うと勝は美味しそうにお茶を啜(すす)った。

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その24

 その後、朝廷の中で評議が行なわれ、幕府にも同じ勅諚(天皇の命令)を出すことが決まり、水戸藩より二日遅れて幕府に着いた。これを知った幕府は、水戸藩に諸藩への伝達を厳しく禁じ、この勅書を即返納するよう命じた。これに対し、水戸藩内でも意見が割れた。

「幕府が申される通り、我々水戸藩が諸藩に対し写しを配るのはおかしいではないか。大老井伊様の命令通り、即刻この勅書は幕府に返却するべきだ」

「いや、わざわざ、天皇が我々水戸藩に下賜されたものだ。幕府に返さなくてよい。いや絶対に返してはならん」

 尊王攘夷を言い続ける激派は、返納を阻止しようと気勢を挙げ、益々過激になっていった。水戸藩主慶篤はこれを鎮撫しようと父徳川斉昭と相談し、勅書を幕府返納することに決断した。

しかし、この決断に水戸藩士族達はまたしても強く反対し結局返納することはなかった。

 これに対し激怒した井伊直弼は、密勅は天皇の意思ではなく、水戸藩の陰謀とし、密勅降下に携わった家老安島帯刀を切腹、京都留守居役鵜飼吉右衛門を斬首。密書を直に水戸藩に届けた鵜飼幸吉には特に厳しかった。斬首の上、獄門(さらし首)となった。左大臣近衛忠熙は失脚し落飾謹慎とした。

 これが安政六年八月「安政の大獄」の始まりである。ちなみにこの梟首(きょうしゅ)は鵜飼幸吉ただひとりである。よほど井伊直弼を憤慨させたかが分かる。また、福井藩主・松平慶永徳川斉昭島津斉彬と共に幕政を改めようとしていたが、その工作を画策し、京や江戸で一橋慶喜擁立の政治活動に奔走していた橋本佐内も伝馬町牢屋敷で斬首された。享年二十六歳だった。

 尚、強烈な尊王攘夷派で「烈公」とも言われた斉昭も失脚し、この年八月に水戸で病死した。また、朝廷においても堀田や岩瀬たちの条約締結勅許に尽く反撥し、廷臣八十八卿列参事件に関わった公家たちの多くも処罰の対象となった。

 そして、吉田松陰も処罰された最後のひとりである。松陰は安政四年に松下村塾を開き、何人もの名士を育てた。その後、幕府が無勅許で交易条約を結んだ事に激怒し、倒幕を企んだ。江戸伝馬町牢屋敷に投獄された後、別件で取り調べ中、老中暗殺計画である新任老中首座間部詮勝の要撃策など倒幕を計画した事を自ら告白したことから死罪となった。吉田松陰の場合は、思想に考えが片寄り過ぎていた傾向がある。弟子の久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎や友人の多くは、過激な松陰に自重を唱えていたと云う。

 安政の大獄とは、尊王攘夷を強く訴え、一橋慶喜を擁立し今の幕政を倒さんとする反幕派を尽く排除しないと、世の中の秩序が乱れ徳川幕府が維持できない。幕府第一主義で、強い危機感を抱いた井伊直弼がやむを得ず取った強硬手段である。

しかし、その多くは理不尽な独裁政治で度を越えた残忍な処罰としか言いようがなかった。

 弾圧されたのは尊皇攘夷派や尾張藩主・徳川慶勝福井藩主・松平慶永土佐藩主・山内容堂など一橋派の大名そして公卿、志士らで、連座した者は百人以上にのぼった。因みに、同じ地下工作をしていた斉彬の部下は、辛くも薩摩に逃げ切った。この七年後、斉彬の意思を継ぎ西郷隆盛率いる薩長が新政府軍となり倒幕する事となる。(戊辰(ぼしん)戦争)

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その23

 安政の大獄

 六月二十七日、朝廷で評議が開かれていた。日米修好条約の調印の報告を聞き孝明天皇が怒りを露にしていた。

「朕は誠に遺憾である。あれ程、異国を我が神国に入れてはならぬと申しつけたはずだが、朕の意向に背き開国をするとは残念でならぬ。朕の代より斯様な儀に相成り、後々まで恥である。先代の御方々に対し不孝この上ない。然る上は、譲位(天皇を退く事)の覚悟もある」

一同は驚愕した。孝明天皇の失意と落胆の思いが皆に伝わった。左大臣近衛忠熙が即座に

「なりませぬ。安易に譲位などと軽々しく口にしてはなりませぬ。直ちに江戸より大老井伊直弼と御三家を上京させ、事態の顛末を説明する段取りをつけます故しばしお待ち願いとう存じます」

と言って諌止した。その数日後、大老親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。しかし井伊直弼はそれには応じなかった。堀田正睦に蟄居を命じた為、それに代わる老中首座の間部詮勝とその補佐小浜藩酒井忠義を呼びつけ、

「間部殿、朝廷より条約の調印の説明に上洛せよとの勅書が届いておる。わしの代わりにそちが酒井と共に出向いてくれぬか。そして、わしは多忙で行けぬ、御三家はご法度に背き処罰を与えてあるので、いずれも出向くわけには参らぬ。そう、朝廷には伝えてくれればよい」

と指示した。間部はその旨回答を持って上京した。しかし、朝廷からは厳しくあくまで井伊に上洛させよとの返事が返ってきた。それでも井伊は従わず、それどころか、アメリカに続き、蘭・露・英とも交易条約を結び、ますます朝廷を怒らせてしまったのだ。

 そこで、孝明天皇は、近衛忠煕らに天皇自筆の「御趣意書」を関東に送る様命じた。この「御趣意書」の上洛指示に対し何度も無視する井伊の幕府宛ではなく、攘夷派の水戸藩に直接送った事が後に大問題となるのであった。(戊午(ぼご)の密勅)

 

 折しも七月末の京都は祇園祭でどこも人通りが多かった。山町鉾町と呼ばれる京都の町衆たちが山鉾(やまぼこ)を曳いている。見上げるほど高い豪華な長刀鉾や函谷(かんこ)鉾の周りを大勢の見物客が囲んでいた。

 そんな街中での賑いを余所に京都御所では、水戸藩老中安島帯刀は近衛忠熙から言いつかった重大な任務に動揺していた。安島帯刀は、二年前水戸藩の御側用人となり斉昭らの幕政を補佐していた。先日、急死したため未遂に終ったが島津斉彬に挙兵させ、井伊直弼を暗殺計画したのもこの安島だった。

 やがて、安島に呼び出されたひとりの男が物音を立てずにすっと現れた。

水戸藩士の京都留守居役鵜飼吉左衛門である。実はこの男、京都工作員でもある。先祖は甲賀忍者で幼少より武芸に秀でており、斉昭に仕え、実子の鵜飼幸吉と共に父子で情報活動をしていた。

「安島様、ただいま参上仕りました」

「鵜飼か、待っておったぞ。早速だが、江戸の水戸屋敷の慶篤様にこの密書を届けて欲しいのだ。重要な勅書故、くれぐれも抜かるではないぞ。だが、そちは近頃病を患っているそうだのう。お主では心許ない。代わりにそちの子、幸吉を使いに出すのが良かろう。直ちに出立いたせ」

 即座に、鵜飼吉左衛門は祭の人混みを烏丸から五条通りを抜け、水戸藩管轄である飛脚の元締め「大黒屋」に急いで向かった。

 大黒屋で待っていた幸吉は、その密書を受け取ると父に代わって江戸に向かった。幸吉は蔵屋敷の古瀬伝右衛門という小役人に成りすまし、夜半東海道を走り続け、漸く箱根まで辿り着いた。しかし、この箱根関所前まで来ると幸吉は嫌な予感がした。役人がいつもより増して厳しく取り締まりをしているのが気になったのだ。

井伊直弼幕臣である長野守膳の配下が、京都御所内で水戸藩への勅書の動きをいち早く察知し、それを長野に伝えた。長野は、すぐさま小田原藩に箱根関所で江戸に向かう水戸藩に関わる武士・商人等を足止めする様指示してあったのだ。更には「大黒屋」も長野守膳の手に完全に抱き込まれていたのだ。幸吉は一旦駿府静岡市)まで戻ると、工作員仲間に会い対策を練った。

 

翌日、幸吉は駕籠かきの人足に変装していた。関所に入ると一応検閲はあったものの、すんなり通り抜けることができた。勿論、幸吉の懐には大切な密書を隠してあった。行李から着物を取り出し着替えると、仲間を残し、再び幸吉は水戸藩邸に向かった。

屋敷に着いたのは、四日目の早朝で、まだ辺りが薄暗く靄が漂っていた。水戸藩徳川慶篤は、天皇からの勅書を手に取り緊張した面持ちで封を開いた。一通り目にすると、すぐさま藩邸広間に全員を呼び集めた。

父斉昭は既に蟄居の身であったが、この事についてはすぐに彼の耳にも届いた。

勅書の内容は次の通りだった。

  • 勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求
  • 御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ
  • 右記二つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよ(左大臣近衛忠煕が副書として添付)

 

 しかし、この三つ目の近衛忠煕が勝手に副書として添付した文面が大問題となり、悲惨な安政の大獄を招いた原因となったのである。なぜなら、徳川将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接渡され、幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ勅書の写しを回送する指示が出たということである。完全に幕府を蔑ろにし、威信を失墜させられた事になり、幕府が黙ってこれを許すはずがないのだ。

 京都  祇園祭