小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その27

 九月一日、改めて人選をした結果、正使に新見豊前守正興、副使に村垣淡路守範正となった。

ふたりとも、外国奉行神奈川奉行の兼任を任命されたばかりの頃であった。加えて遣米使節目付(監察)として小栗豊後守忠順の三名が正式に決定した。

 この三人はいずれも一橋派とは無縁の家臣であえて選出した。特に新見と村垣の二人は事なかれ主義で帰国後も歴史上の表舞台に名を出す人物ではなかった。ちなみに村垣範正は、八代将軍吉宗紀州から連れてきたお庭番の家筋で、各地の情報収集や分析をやらせれば非常に優秀な人物だったと云う。

 木村が第十四代将軍徳川家茂から正式に遣米使節随伴を任命されたのは十一月に入ってからだった。

 早速、木村が勝と相談し、彼らに付随する乗組員の編成に取り掛かった。主には長崎の伝習生たちから選りすぐり、水夫や火焚ボイラー士)なども徐々に決まっていった。この乗組員の名簿は築地操練所の大広間に派遣者の名前が掲示された。(十一月二十四日)

主な乗組員は次の通りであった。

 

軍艦奉行(総督) 木村摂津守喜毅 (三十一歳)

船将(艦長)    勝麟太郎義邦 (三十八歳)

砲術方・運用方  佐々倉桐太郎  (三十一歳)

運用方       鈴藤勇次郎  (三十五歳) 浜口興右衛門英幹  根津欽次郎勢吉

測量方       小野友五郎  (四十四歳) 伴鉄太郎 松岡磐吉 他一名

蒸気方       肥田浜五郎  (三十一歳) 山本金次郎 他二名

通弁方       中浜万次郎  (三十四歳)

奉行従者      福沢諭吉   (二十七歳) 他四名

公用方二名、医師四名、船大工一名、鍛冶役一名、水夫六十六名   計九十四名

 

 しかし随伴船においては、二転三転した。しかも理不尽な事ばかり続いたのである。

 一旦決まった朝陽丸だったが、永井尚志から引き継ぎ、小普請奉行から軍艦奉行となったばかりの井上清直(元下田奉行)から、少しでも多く正使の荷物を引き受けるには積載量の計算から一回り大きい観光丸にしたいという意見を出し急遽幕府の了承を得た。観光丸は長崎海軍伝習所開設の際オランダから寄贈された外輪船(船側面水車型)である。 

 

 この直後、横浜に滞在中のアメリカ測量船フェニモア・クーパー号の船長ブルック大尉から乗組員十名をこの随行船に乗せ帰国させて欲しいと言ってきた。更にブルック大尉からは、その代わり日本人乗組員に航海術を学ばせる事を条件にしたいという案を出してきたのだ。クーパー号は日本周辺の測量中、暴風雨のため難破し、船を失い帰国する船便を待っていたのだ。

 もともと幕閣は米国へ派遣する別船を認める当たり、日本人だけでは危険すぎるとして航海経験豊富な米国の海軍関係者を同乗させることを条件とした。ブルック大尉一行はその役割を果たすには打って付けの存在だったのだ。ブルック大尉もその役割を快く受け、日米友好のために自分たちの力を貸すことに同意したのだった。

 だが、攘夷思想の高まる中、血気に逸る乗組士官たちは外国人の手を借りて航海するのを嫌がった。そこで、船将と決まった勝麟太郎は士官たちを集めて、啖呵を切った。

「お前さんたち、ケチな了簡で意地を張ってちゃあいけねえよ。この船は何としてでも日本人だけの腕でアメリカへ行くんじゃねえのかい。あいつ等においら達の実力を見せるいい機会じゃねえか。あいつ等は、ただの見物人だ。お客さんだよ。黙って乗せてってやんなよ」

と言って皆を渋々納得させた。勝にとっては、念願だったアメリカ行きが実現し、数人のアメリカ人を乗船させる事などは、それ程気にならなかったのだ。

 しかし、勝にとっての不満は、随伴船が朝陽丸ではなく、観光丸になった事だった。以前、旧式で老朽化した観光丸ではなく、艦の性能や航海上の安全から最新型のスクリュー船朝陽丸の方が適していると勘定奉行や上役の井上清直に折衝したが、この頃勝はまだ身分が低くこの事を、まるで理解してくれなかったのだった。 

 一方、総督になった木村喜毅も士官たちの不満を感じ取っていた。乗組員たちが、今でも長崎海軍伝習所時代の低い身分のままで、これから命を懸けて決死の航海に臨もうとする者たちの待遇が一向に改善されず不平不満を口にするのは当然である。これでは士官たちの士気が上がらない。これに対し木村は強く幕府に待遇改善を求めたが、幕府内も財政が困窮であった為、頭の固い役人がこれを了承するはずが無かった。

 

 そこで、思案した木村は、手当を与えるための資金を自前で捻出する事に決めたのだ。その行動とは、何と木村家に代々伝わる書画骨董を残らず処分して三千両の大金を用意したのだ。この陰には木村の良き理解者である父の存在が大きかった。父の木村喜彦は浜御殿奉行で将軍家の庭(現在の浜離宮)の管理を掌り身分は格式の高い旗本であった。その後も木村は、幕府と更に交渉を重ね、なんとか渡航費用として五百両を下賜されたのである。そうして、その金を乗組員の働きや貢献度に応じ、その都度恩賞を与えることにしたのだった。

   副使に村垣範正(副使)    新見正興(正使)    小栗忠順(目付)