小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その32

 咸臨丸は、その後も風波と闘いながら、北緯四十度線を東へ東へと進んだ。速度は一日に数十キロの日もあれば、二五十キロ以上進む日もあった。

ブルック大尉は困り果てた。自分に指揮権がなく、日本の士官が長崎で習った命令はすべてオランダ語だったので、指示内容が中々伝わらないのだ。一番理解しているのは中浜万次郎だけだった。そこで、ブルック大尉の代わりに中浜が命令を出したところ、水夫たちは猛烈に反抗した。

「お前は、元々ただの漁師の小倅だろ。何を士官ヅラしてものを言っとるのか。わしらに命令するつもりか。これ以上、偉そうな事を言うと帆柱に吊るすぞ」

アメリカ寄りの万次郎を水夫の皆はよく思っていなかった。

 

 二月に入り、日付変更線を越えたあたりで、急に寒さが厳しくなった。濡れた衣服を外で乾かせる日も少なく、衣類は勿論、自分たちの身体を暖めるには船内の火鉢が欠かせなかった。皆の気持ちは寒さと船酔いで次第にイライラ感が募ってきた。北太平洋の荒れは想像を絶した。

 そんな中、アメリカ軍人が食事に不満を言い出したのだ。アメリカ人のコックから大波の影響でいつもの朝食が作れないと知らされ、仕方なくまずい日本食を食べさせられた事にアメリカ軍人と日本人との争いが端を発した。彼らの間では、それまでも何度か悶着が起きていた。言葉の行き違いが原因だが、そのたびに中浜万次郎が中に入り、何とか収めたものの、たがいにイライラが高じて、それが爆発したともとれる。

 心配していた飲料水が不足してきた。この報告を受けた勝は、一日の使用量と使用目的について厳しく規則を作った。水はかなり貴重となり、飲み水は今までの半分に減らし、洗濯も最低限とした。

 久しぶりに雨風が和らぎ、甲板には大勢の乗組員が暖かい陽を浴びていた。すると、その中に鉄砲方の森勘次郎と水夫がアメリカ水兵と何やら言い争いをしていた。言い争いといってもお互い言葉が通じず、ただ罵声をあびせているだけだった。水夫のひとりが

「おい音吉、小野様と万次郎を呼んで来い」

音吉と呼ばれた水夫はすぐさま、二人を連れて甲板に戻ってきた。

「森、どうした」

「あ、小野様、聞いてください。こいつが貴重な水を盗んでいるところを、この音吉が目撃したって言うんです。このアメリカ人に問い詰めているのですが、話が通じないので困っています」

すると音吉が

「間違いねえです。おら、この目で確かに見たんでさあ」

「うむ、万次郎、今の話が真かどうか、そ奴に聞いてみてくれ」

万次郎は、首肯くと、そのアメリカ水兵に流暢な英語で話をきいた。そして小野に向かい、

「この水兵は、フランク・コールという名で、この者が言うには、決して水など盗んでいないと言い張っております。いいがかりを言うなと逆に怒っております」

「万次郎、おめえアメリカ人の肩を持つ気か。嘘をいうとおめえも勘弁ならねえぞ」

と誰かが叫んだ。

 この騒ぎに周りにいた人が集まってきた。そこに人垣を分けて入ってきたのはブルック大尉だった。万次郎は事のいきさつをブルック大尉に説明した。すると、ブルック大尉はその水兵と何やら話していたが、やがて水兵は黙ってうなだれてしまった。そして、万次郎にむかって皆へ話して欲しいと言った。それを聞いた万次郎は驚いてしばらく黙り込んでしまった。やがて万次郎が口を開いた。

「ブルックさんが言うには、確かにフランクはどうしても水が欲しく盗んだのは確かだと言っています。仲間の具合が悪く、水を飲ませたり、嘔吐で汚した衣服やベッド毛布を洗うため、やむを得ず水を盗んだと言っています。しかし、どんな理由があるにせよ、貴重な水を盗んだことはアメリカ海軍として規律を破ったことになります。従ってこの罪は重く、日本人の乗組員の気が済むように、彼を銃殺して欲しいと言っています」

更に万次郎は言った。

「その際、部下の行なった過ちは上官である私の責任でもあるので、私も一緒に銃殺して欲しいと言っています」

それを聞いた周りの乗組員は誰もが沈黙した。しばらくして小野が皆に云った。

「おい皆、今回はブルックさんに免じて許してあげようじゃねえか。考えてもみろ、最初はこの咸臨丸で俺たち日本人だけの力で太平洋を渡ろうと息巻いていたが、ざまぁねえや。このブルックさんやアメリカの水兵さんたちに助けてもらわなければ、到底(とうてい)無理だったに違いねえ。お前たちだって、アメリカ人から色々船の操作を教えてもらったから、ここまで来たんじゃねえのか」

 事実、最初は全く船酔いでやる気がなくアメリカ人を頼り切っていた乗組員も経験を積むに従って腕をあげ、自分たちで船を操ることが出来るようになってきたのである。小野がはなし終わると誰一人、文句を言う者はいなかった。福沢もこの一部始終を見ていており、木村に報告した。

勝の耳にも、当然この話は入った。勝は同乗していた医者の牧山(まきやま)修(しゅう)卿(けい)の看病もあり、体調は頗る回復してきたのである。勝は部屋にブルック大尉を呼び、改めて丁寧にお礼を述べた。万次郎も同席させ通訳を頼み、軍艦の造船技術や購入方法など詳しく聞き取りした。ブルックもこれに応え、出来る限り説明し、ふたりの親交も深めていった。

 二十四日、測量方の小野友五郎が

アメリカ西海岸まで一二〇里(約四八〇キロ)ばかり。順調に行けば、あと二日で到着する』

と貼り紙をすると、船内は沸(わ)き上がった。だが、ブルック大尉は、あと三日はかかるだろうと否定した。しかし、二十六日早朝、小野の推測通り、遙か東の方向に飛んでいる海鳥(カモメ)が見えた。そして、やがて待望のカリフォルニアの大地が霞(かす)んで見えたのだ。小野の推測がブルックを凌(しの)いだというので乗組員たちが感激し、胸を張った。

 勝が嘘のように元気になって甲板に出てきている。陸地が見えると、砲術方の佐々倉義行を呼んだ。

「佐々倉、大砲の準備をしろ。祝砲だ、祝砲を射て」

勝は甲高く叫んで高く手を上げた。ドーンと最初の一発が放たれた。同じ間隔を措き続いてドーン、ドーンと二十一発の祝砲がサンフランシスコ湾に轟(とどろ)き渡った。乗組員は誰もが何も言わず聞いていた。皆、胸に熱いものがこみ上げていたのだ。

安政七年二月二十六日(太陽暦三月十七日)午後一時、咸臨丸はサンフランシスコ湾内に推進した。

 実に三十八日間に及ぶ長い航海であった。この間、晴れた日はわずか七日だけで、如何に悪天候の連続だったことがわかる。この暴風雨が続く中、無寄港で太平洋を横断した偉業はブルック大尉にとっても初めての経験であった。

 しかし、この厳しい航海中に病気で倒れた者も大勢いた。それは、苛酷な労働と寒さと栄養不足で衰弱した水夫や火焚(ひたき)たちであった。その中でも最も重労働に喘いでいたのが火焚(ボイラー)の峰吉だ。峰吉は狭くて熱い船底で働き詰めだった。そんな苛酷な仕事中に熱病にかかり、殆ど寝ている状態だった。峰吉は長崎海軍伝習所の一期生で勝とは長いつきあいである。

そして、やはり熱病で倒れたふたりの水夫がいる。勝が長崎から江戸に戻る途中、塩飽島で一時帰郷を許した者たちだった。平田富蔵と岡田源之助である。特に富蔵は衰弱が酷く、見るも痛々しかった。

サンフランシスコ湾