小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~  その6

長崎伝習所

 

木村が長崎に戻ったのは、それから十日ほどである。十一月に入って、ここ数日は晴天続きで長崎湾の波も穏やかだった。陽気が暖かく海風も気持ちが良かったので、少し出島の方に足を延ばした。門を潜ると、左側には花畑があり、白や黄の和蘭花が綺麗だった。長崎湾にはオランダの商船が港に入っていくのが見えた。

出島はポルトガルやオランダとの貿易のために造られた人口の島である。行き来は一本の石橋のみで繋がっており、島全体は海岸に沿って扇型に出来ている。西洋の国からは織物、陶器、砂糖、薬品など、日本からは銅や漆器、醤油といった品々が輸出入されていた。

木村は何気に数人のオランダ人が日本の商人と何か話しながら歩いて行く姿を見て、やはり江戸との違いを感じた。だが、この江戸から遠く離れた長崎が嫌いではなかった。むしろ時々こうして異国情緒ある街並を歩き、山と海が入り組んだ長崎湾の景色を見ていると妙に落ち着くのだった。

しばらく寄り道をしてから、出島と隣接する海軍伝習所に着いた。高い石垣の上に白い漆喰壁と黒塀、武者窓がいくつも並ぶこの建物は、まるで小規模な城郭を思わせる造りであった。

この伝習所設立のきっかけは、ペリー艦隊が来航し開国を要求され、幕府内だけで判断することが難しいと老中阿部が、幕臣だけでなく一般人まで広く意見書を募集した事からだった。この募集に、全国からはなんと七百通もの意見書が届いた。その中に当時江戸の田町で私塾を開き蘭学と西洋兵学を教えていた勝麟太郎も海防意見書を提出した。その内容とは、

一、江戸湾の防衛砲台設置 二、軍艦の調達 三、その軍艦操縦の人材育成 の三つを主に挙げた。

これを目にした幕府は勝を幕臣に登用した。この時の推挙も人材発掘の得意な老中阿部だった。その後、所長格の永井尚志(なおゆき)と共に岩瀬忠震が海軍伝習所を長崎に設置したことを機に、勝麟太郎長崎海軍伝習所の第一期生として入門した。安政二年七月二十七日のことだった。

勝は伝習所ではオランダ語を話せたため、教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。そのため伝習所には欠かせない存在となっていた。

特に勝はオランダ人教授のペルス・ライケン大尉とは、長く親密な師弟関係が続き、軍艦だけでなく、海外の情勢や西洋の政治体制、宗教、文化風俗などあらゆる面で話を聞くことが出来、勝は日本人として最も国際感覚を身につけた人物となったのである。

当初、幕府は軍艦さえ手に入れれば、操縦術などオランダ人から学ぶ必要はなく、日本の水夫がいくらでも操縦できるだろうと安易に考えていた。しかし、軍艦操縦のための人材育成の必要性を強く訴えたのが勝麟太郎だった。その為の海軍伝習所である。

伝習所の授業の内容は、幕府海軍の養成を目的にしたので、軍艦の操縦術をはじめ、航海術・測量・砲術・造船や医学化学など様々な教育が、オランダ人を講師に雇い行なわれた。中でも航海術の講師カテンディーケは生徒を糞みそに叱り飛ばしたりして、厳格すぎて敬遠された。

それに対し軍医でもあるヨハネス・ポンペは、非常に熱心に生徒たちに教え、皆から慕われた。ポンペは日本で最初に西洋式病院(長崎養生所)を設立した人物でもある。

教える側も受講する側も最も悩まされたことが言葉の壁だった。ノートにメモする事を禁じ、ひたすら暗記する方針だったので、その苦労は想像以上に伝習生を苦しませた。更に殆ど休みがなく朝から夜まで続いた授業だった。

しかし、七曜表が取り入れられ、曜日と時間割で授業科目が決められるようになった。それにより、開設当初よりは時間が改善し午前、午後共に一時間ずつ授業時間が短縮され、日曜日は休講となった。

カテンディーケらが乗ってきたヤパン(日本)号を咸臨丸と名前を改め、近頃はその咸臨丸の実地訓練が多くなってきた。カテンディーケが指揮役となり、伝習生に運転させ、五島の近くや博多のあたりまで出ていった。

余談ではあるが、ヨハネス・ポンペは伝習生の中にいた医者の松本良順らと共に医学伝習所も設立し、物理学、科学、解剖学、生理学、病理学など医学関連科目をすべて教えた。

この医学伝習所で日本初の死体解剖実習も行ない、このときにドイツ商人シーボルトの娘、楠本イネ(異名がオランダおいね)ら多くの学生が参加した。この医学伝習所は現在の長崎大学医学部の前身である。

 長崎 海軍伝習所