小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その38

 三月十日、使節団一行は、メア島から蒸気船アクティヴ号に乗り換え、サンフランシスコ市街へ行き、インターナショナル・ホテルに泊まった。彼らにとっても初めてのアメリカ人の歓迎と料理には驚きの連続だった。

 副使の村垣範正がホテルの四階から街の景色を見渡している時だった。周りの建物はどれも煉瓦造りだった。村垣はアメリカ軍人の案内人から、この建物は地震以外であれば、火災には強いと自慢気にいう説明を受けていた。すると偶然にも近くの建物で火災が起こった。ところが、周囲の人々は特に驚きもしなかった。近くの建物の屋上に夫婦がいたが、主人は火災を気にすることなく本を読んでおり、婦人は幼児を抱きながらそれを見ていた。時折、夫婦は談笑しながらそれを見ている。やがて大勢の消防士がポンプ車と共に現れ、程なく鎮火した。

 江戸では一旦火事が起きると、周りの町民は家財を荷台で引き大騒ぎで逃げまどう。火消衆が先を急いで屋根の上でまといを振り立てる。消火というより周りの建物を壊すことが仕事だ。村垣は江戸の火事との違いをまざまざと知らされた。

 

 翌々日の十二日は、予定が満載だった。午前中にイギリス・フランス・ロシアの各領事館へ行き領事と面会。引き続きサンフランシスコ市役所へ行き幹部に挨拶。その後、音楽学校で日本からの使節団歓迎の昼食会をする事となり、昨日から来ていた木村総督も中浜やブルック大佐と同席する予定だった。

 ところが、思いがけない事件が起こり、急遽木村はメア島に戻ることになったのだ。実は前日、メア島に碇泊していたインディペンデンス号から祝砲があり、ポーハタン号もこれに応え答砲を行なったのだが、不運にもその一発が波止場を歩いていたカニンガム提督のすぐそばに着弾し、その火気により提督は左肩に衝撃を受け、顛倒してしまった。すぐに邸宅に運ばれたが流血している上に顔面にも火傷を負っており、負傷は決して軽くはなかった。

 使節団に同行していた木村の元にも、すぐその知らせが届き、急いでカニンガム提督の元へ行ったのである。

メア島に戻ると、そのまま提督の邸宅に駆け込んだ。カニンガム提督のそばには心配そうな顔で勝麟太郎も見舞いに来ていた。提督の顔には痛々しい包帯が巻かれていた。

カニンガム提督、大変な目に遭いましたね。お怪我は大丈夫ですか。」

「これは木村さん、わざわざ来て頂きありがとう。おや、今日は歓迎会に出席されるのでは無かったですか」

「いや、それ処ではないと思い、アメリカ海軍に無理を言って船を出してもらい、ここに駈けつけました」

「それは、ご心配かけて申し訳ない。医者が言うには二、三日すれば痛みも落ち着くだろうとの事です」

木村は、カニンガム提督が普段通りの会話が出来ることを知り、とりあえず胸を撫でおろした。

 

 一方、サンフランシスコでは、歓迎会が盛大に行われていた。しかし、市長や市の幹部たちは、すでに前回の歓迎会の時に、人気を博した木村の姿が見えないのを不審に思った。その様子を察したブルック大尉が

「サンフランシスコの皆さん、この場に木村総督の姿が見えないので不思議に思っておられる方も多いかと思います。実は、昨日メア・アイランドのアメリカ軍造船所の司令官カニンガム提督が不運の事故により顔に怪我を負われました。そこで、木村総督は非常に心配され、楽しみにされていたこの歓迎会をやむを得ず欠席され、急遽カニンガム提督のところへ見舞いに行かれました。木村総督にとって、カニンガム提督はかけがえのない友人なのです。この日本とアメリカの友情にどうかご理解下さい」

そう説明すると、会場からは大喝采が起こった。ここでも木村の振る舞いは、アメリカ人に感銘を与えたのだった。

 

 この日、咸臨丸乗組員に悲報が届いた。病院に入院していた水夫の富蔵が息を引き取ったのである。アメリカに着いて、すぐ、勝とブルック大尉が具合の悪い水夫たちと一緒に入院させ、しばらくは治療を受けていたのだったが、衰弱が酷すぎて回復には至らなかった。平田富蔵は瀬戸内海の塩飽諸島の中にある佐柳島(現代はネコ島として有名)という小さな島の出身だった。勝は後日、介護をしていた同じ佐柳島の前田常三郎から、その時の様子を聞き、声を上げて泣いたと云う。

「常、おらもういかん。おめえ、無事日本に帰れたらカカアに宜しゅう伝えてくれ。おらアメリカに来れて幸せだ。何よりも勝先生にわずかだがお役に立てたことがすごく嬉しいんじゃ。先生は、口は悪いがほんに優しい方や。おらみてえな水夫も人間らしゅう扱うてくれた。出来れば一生、おそばについて先生のお役に立ちたかった・・・」

そう言うと、静かに目を閉じた。

 左から富蔵、峰吉、源之助の墓 (サンフランシスコ コルマの丘)