小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その36

 メア・アイランド

 

 サンフランシスコに渡った咸臨丸は航海中、何日も続いた暴風雨で船体は相当傷みが酷かった。そのことを心配したブルック大尉は、勝麟太郎に親切な提案を持ちかけた。

「勝さん、今更ですが、よくこの船で荒波の太平洋を渡ってきたと驚きです。この船でまた日本に帰るためには、相当修理しないと無理だと思います。宜しければ船を修理して差し上げたいのですが、いかがでしょう。修理日数もそれなりに掛かりますが宜しいですか」

「勿論です。実はこちらから修理を是非お願いしたいと木村さんと話していたところです」

「それでは、造船所のカニンガム提督を紹介しますので、これからお会いしましょう」

 ブルック大尉に案内されて、咸臨丸はこの修理のため、サンフランシスコから北東四十キロにあるメア・アイランド海軍造船所へ廻航した。ここは、広い敷地内にドックはじめ製作工場、設計事務所、武器・食料品等の保管庫、官舎等が配置された大きな造船所だった。

 一行は提督室に入ると、カニンガム提督は親しげな顔で握手を求めてきた。六十過ぎの温厚な人柄だった。一通り造船所内を案内してもらうと、

「なにぶん、このような場所なのでホテルのような建物は近くにありませんが、修理の間は私の家の隣に官舎がありますので、そこを皆さんの宿泊施設としてお使いください。もし宜しければ、今夜は、わたしの家にお泊りになってはいかがですか。」

 通訳の中浜万次郎は、このような時は断ってはいけないというので、勝は木村、中浜、小野そしてブルック大尉と共にお世話になる事となった。

 馬車に乗り提督の屋敷に着くと、勝はその広さに度肝を抜かされた。よく手入れをされた広く一面の芝生の横に花壇があり、赤、黄、白の花が植えられ、いい匂いがした。正面にはアメリカ国旗が風に翻っている。二階建ての三角屋根には煉瓦で造った四角い暖炉の煙突が突き出している。一階には建物に付随し洒落(しゃれ)た丸柱の柵で囲むデッキがあり、豪華の中にどこか親しげな建物だった。

 隣には煉瓦づくりの四階建ての官舎で別棟には自炊用の調理場と浴室が備えられていた。水を井戸から汲むのではなく、水道というものがあって、とても便利だった。乗組員は全員ここで寝泊まりする事となった。最初は帆をテント代わりにして野宿を覚悟していた乗組員達にとってこの宿舎はとてもありがたかった。

 咸臨丸に積み込んであった米、味噌、醤油、梅干し、酒などを持ち込み、日本食を作ることにはまったく不自由しなかった。アメリカ人は毎日、彼らに魚の差し入れもしてくれたのだ。風呂もいつでも入れた。

 この敷地内ではアメリカの士官たちも住んでおり、時折、彼らの家に招かれて歓談する内に日本人とアメリカ人の中に親しい交流の絆が出来上がっていった。

 福沢諭吉も英語は読むことは少しできたが、相変わらず話すことは苦手だった。しかし、積極的に話しかける事により、徐々に彼らとコミュニケーションが取れるようになった。福沢が驚いたのは、招かれた時に奥様が出てきて客の相手をし、その間、旦那が動き回って食事の段取りをしてくれる。日本の男尊女卑や風俗習慣のあまりの違いにびっくりした。

 

 修理は予想以上に手間がかかった。マストも前部と中央の二本を交換した。また、暴風雨で破れた帆もすべて新調した。ペンキ塗り替えなどの大掛かりな補修作業には時間を要した。勝が驚いたのは、浮きドックといわれる仕組みで一旦船を海水と共に施設内に浮かべ、徐々に海水を抜くことにより船体全てが表面に露になり、船全体が隅々まで点検できる状態にできた事だった。

 アメリカの修理責任者マクジュガルは何をするにも勝に具体的な修理方法や時間の見通しを説明し、その都度、承諾を得て進めている。勝は自分たちが未熟ゆえ損壊させたものが多いので、マクジュガルさんが良いと思ったことは相談せずに独断で進めてくださいと伝えた。

ところが、キャプテン・マクジュガルから意外な言葉が返ってきた。

「勝艦長、そのような事はできません。艦長たる者は、日頃から船のことは例え甲板の板一枚といえども細部にわたって、その機能を知り抜いていなければなりません。船の各部の堅固さ、帆索がどれほどの強風に堪えられるかなど熟知していることが重要なのです。指揮官がこうしたことを詳細に知らぬばかりに、艦全体に危険が及ぶこともあり得るのです。

ですから、僅かな事でも艦長の了承のうえ修理しています。そうでなければ私は自分の仕事に安心が持てません」

 勝は、修理一切を人に任せきりにした自分を恥じた。そして、この熟練の技を備え、船の事を知り尽くした達人の言葉が胸に深く突き刺さった。

更にこの作業員たちは、ありがたいことに蒸気機関(ボイラー)部分は修理の必要はなかったが、それも船体から取り外し、手入れをしてくれたようだった。

 勝は勉強のためと称し水夫や火焚(ひたき)にも手伝わせた。実際、勝は製鉄所、蒸気工場、製図場どれをとっても長崎と違ったので、あらゆる技術を勉強する事ができ昂奮の毎日だった。 

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その35

 襲撃前夜三月二日、薩摩藩有村雄助の計らいで帰国のため留守であった三田薩摩藩邸を借り、そこで最終計画が練られた。そこには高橋、金子の他に関鉄之介、岡部三十郎、佐藤鉄三郎、稲田重蔵、薩摩藩の有村兄弟ら十九名が集まっていた。

首謀者の金子孫二郎が薩摩藩有村雄助に向かって、

「有村殿、これまで何かとかたじけない。薩摩藩の挙兵準備はいかがな状況でしょうか」

「ご安心くだされ、斉彬様のご意思に沿い、銃や大砲を整え兵の訓練も順調に行なっちょり申す」

「それは頼もしい限りです。私を含め水戸を脱藩した者は、井伊殿への不満が鬱屈しており皆、血気盛んでござる。井伊の悪政を倒し、幕政の改革を皆願っております」

「そいは、薩摩藩も同じでごあす」

金子は深くうなずくと、

「では、これより、襲撃計画の手はずを説明致す。日時はあす三月三日早朝。佐藤鉄三郎は彦根藩上屋敷前で待機しておれ。屋敷の門が開き井伊の行列が出たことを確認したら、関にいち早く知らせるのだ。

いいか、現場での総指揮は関鉄之介、お前に任せる」

皆、広げた地図をみながら黙ってうなずいた。彦根藩屋敷から江戸城桜田門までは僅か五百メートルである。

「襲撃場所はここ、桜田門の橋の前だ。まず、森五六郎、お前が先頭の者を斬る。警固の者たちが皆この騒ぎで先頭の方へ集まるだろう。そこで駕籠の横からピストルを撃つのだ。その役目、黒澤忠三郎、お前だ。このピストルの音を合図に全員で駕籠に目掛け井伊の首を狙うのだ。わかったか」

黒澤がゴクッと生唾を飲んだ。

「よいか、必ず井伊の首を取るのだぞ。その見届け役は岡部殿にお任せ申す」

金子は横に置いてあった木箱を前に出しふたを取った。中には三丁のピストルが入っていた。連発銃のコルトを水戸藩が複製したものだった。これを森、黒澤、関の三人にそれぞれ渡した。

「万が一、斬り込んだ者たちが仕損じた時は、関鉄之介、この銃とお主の刀で必ず本懐を果たすのだぞ」

 

 安政七年三月三日、この日は明け方から季節外れの大雪であった。大粒の牡丹雪である。辺りはたちまち真っ白な雪景色となった。午前八時、江戸城から登城を知らせる太鼓が鳴り響いた。これを合図に諸藩が行列を成して桜田門を潜っていく。既に沿道には、大勢の江戸町民らが登城していく大名を見物している。この町民相手に蕎麦屋の屋台もあやかっていた。水戸浪士たちもこの人込みに紛れ込んでいたのだった。

午前九時頃、尾張藩の行列が見物客の前を通った。 

 その同時刻、彦根藩上屋敷の門が開き直弼の行列は出発した。総勢六十名の従者であるが、警固はたった十数人だった。揃いの雨合羽を羽織り、大雪のため刀が濡れないように鞘に柄袋を被せてあった。従者たちはこの街中でまさか襲われるなど想定していなかったのである。

 実は、事前に井伊直弼の手元に襲撃計画の警告が書かれた密告書が届いており、側近が警固を増やす様注意を促していたのであるが、井伊はこれを軽視して、

「もし、それで死ぬような事があれば、それがわしの運命である」

と側近に告げ、敢えて何もせず捨て置いた。

 井伊直弼は、前日の和歌会の席で、次のような辞世の句を残している。

「咲きかけし 猛き心の 一房は 散りての後ぞ 世に匂いける」

これを現代文に訳すと、世の中のためを想った熱い思いは、自分が死んだ後に世の中に理解されるだろう。まるで、死期を予想した様な一首である。

 

 佐藤鉄三郎は行列の出発を確認すると、即座に関鉄之介の元に行き耳打ちをした。関が仲間に目配せしてこれを知らせると、各々が鞘袋を外し草鞋の紐を縛り直し襲撃に備えた。

彦根藩井伊の行列が関の目の前を通過した。すると先頭の従者に向かって、森五六郎が

「捧げまする。大老様に申し上げたい訴えがございます」

と言って跪き、上訴と書かれた封書を差し出した。勿論、偽りである。「何事だ、無礼者」と言いながら近寄ってきた従者を森は柄に手をかけ、鯉口を切ると同時に右手一本で真一文字に相手の腹を右に払った。すると「ぎゃあ」と従者は腹を押さえ倒れた。警固の者が数人慌てるように先頭に駆け寄ってきた。

 それを見た黒澤が見物人の前に出て、ふところからピストルを出すと駕籠に向かって狙いを定めた。「パーン」と辺りに響く音がした。それを合図に左右後の三方から一斉に浪士たちが斬り込んだ。

 警固の者が刀を抜こうとしたが、雪で被せた鞘袋の紐がなかなか解けない。仕方なく鞘のまま斬り込んでくる刀に応酬した。中には慌てて相手の刀の切っ先を素手で受け、そのまま指を切り落とされた者がいた。あたり一面真っ白だった雪が、たちまち赤い血で染まった。あちらこちらで、怒号と悲鳴が入り混じっている。槍持ちや傘持ちの奴さんはとっくに逃げ、残っているのは警固の十数人だけだった。大勢いた見物人の町人や商人も悲鳴をあげ、その場から散っていった。その場は騒然となった。

 スキを見て稲田重蔵が駕籠の左から斬り込んで、そのまま駕籠に体当たりし刀を一気に突き刺したが手ごたえがなかった。駕籠の中の井伊直弼はさっきのピストルの弾が右太ももを貫通し腰骨に命中していたのだ。井伊直弼は抜刀術に長けていたが、全身に激痛が走り、刀を抜くどころか立ち上がることも出来ないでいた。

 稲田の襲撃にすぐさま彦根藩選りすぐりの剣の達人供目付・河西忠左衛門が二刀流で応戦した。河西の降り下ろした刀が稲田の身体を引き裂いた。その加西の背中を今度は広岡子之次郎が切りつけた。ふたりの激しい攻め合いはしばらく続いた。駕籠の横で倒れていた稲田が最後の力を振り絞り立ち上がって、駕籠に向かって二度目の刀を突き刺した。今度は確かな手ごたえがあった。駕籠の中でうめき声が聞こえたが、稲田はそのまま崩れ絶命した。

 両者入り乱れての斬り合いの中、駕籠の護りが手薄になった。今度は薩摩藩有村雄助の弟、有村次左衛門が駕籠に向かって刀を突き刺した。これが井伊の致命傷となった。有村は駕籠から井伊の身体を引きずり出すと、首を狙って刀を大きく振り下ろした。あたりに大量の血が飛び散った。続けて二度、三度振り下ろすと井伊の首が胴体を離れてコロコロと雪の中に落ちた。

「討ち取った。討ち取ったあ」

 有村次左衛門が井伊の首を高々と持ち上げたのだ。有村の顔も身体も大量の返り血を浴びており、ゾっとするような形相だった。有村が井伊の首を掲げて持ち去ろうとしたところを、彦根藩の追っ手の一撃を頭に受けた。即死だった。この壮絶な戦いはわずか数分の出来事だった。

 

 この襲撃事件で彦根藩井伊直弼のほか護衛隊八名、そして水戸浪人は五名が命を落とした。その他の浪士は自害、自首、逃亡したが結局全員絶命した。また、これに拠って水戸藩が得るものは何もなかった。薩摩藩の三千人余りの挙兵計画も斉彬の弟、島津久光の命令で取りやめとなったのだ。 

 一方、彦根藩の中でも厳しい処罰が行なわれた。井伊直弼を死に至らせ警護に手落ちがあった事を理由に、軽傷を負ったものは切腹、無傷だったものは全員斬首となった。

 

 また、この大事件をアメリカに行った使節団が知ることになるのは、まだまだ先のことだった。

 桜田門外の変

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その34

 翌日も木村は歓迎攻めにあった。というよりも珍客を一度でも見て話題にしようと押し掛ける見物人ではないかと思った。外出について最初は自由としたが木村は異国で何か間違いが起きてはと、心配して決め事を徹底させた。そして甲板に乗組員を全員集めると、次の通り訓示をだした。

 

・上陸の際は、決して屋内、屋外とも飲食をしてはならない

アメリカ士官の者から饗応と称して酒食を差し出されてもなるべく断ること

・外泊は一切相成らぬ

・上陸歩行の際、一人歩きはならぬ、三人ずつ組んで水主火焚(すいしゅひたき)を連れ歩くこと

・上陸時間は朝五時より正午、または正午より午後五時のこと

・出先で如何様な事があっても相忍んで帰り、帰った事を報告すること

 

 次の日、市長より市民が咸臨丸を見学したいので、是非許可を頂きたいと申し出てきた。通訳した中浜が木村に伝えると、勝さんの了解を取って下さいと言う。更に勝に事情を話すと、

「咸臨丸は日本の軍艦だ。静粛に拝観するならばいいが、しかし女はいけねえ」

と、ぶっきら棒に答えた。

翌日予想以上の大勢の見学者が訪れたが、その中に新聞記者がいた。翌日の新聞には

「当市の婦人たちは面目を失った。日本人は女性に理解がない」

と非難の記事が載った。中浜はこれを訳し勝に伝えたが、気にする事はないと言ってせせら笑った。

 もうひとつ話題になったことがある。見学者の中に一人女性が紛れていたのだ。この女性はどうしても船を見たいという願望から、女人禁制と聞いて、男性の恰好をして帽子を深くかぶって潜入したのだが、何故かこれを木村が見破り、咎めるどころか帰りがけにある包みをこの女性にそっと渡した。女性は家に帰り包みを開くと、日本製の美しい櫛が入っていたと云う。女性は感激してこれを知人に話したところ、いつの間にか日本人の美談として噂が広まったのだ。

 

 

  桜田門外の変

 

 咸臨丸がサンフランシスコに到着して七日が過ぎ三月三日となった。実はこの日、日本では大事件が起こっていたのだ。大老井伊直弼江戸城で行われるひな祭りの行事に登城する為、彦根藩屋敷から江戸城に向かう道中で、浪人たちに行列を襲われ、殺害されたのだ。(桜田門外の変

 

井伊直弼水戸藩をはじめ次々と一橋派を蟄居や処刑をし、その過激さから反感を買い、最後まで勅書の返納に反対していた水戸藩士族が脱藩して、遂に井伊直弼暗殺の企てをしていたのだ。また、薩摩藩でも暗殺と同時に京へ向け三千人の兵をあげる準備をしていた。

 その計画は水戸藩士の高橋多一郎、金子孫二郎を中心に図られており、高橋は薩摩藩との調整連絡役を、金子は井伊直弼の襲撃計画の指揮を担っていた。

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その33

 サンフランシスコ

 咸臨丸はサンフランシスコ湾の南にあるアルカトラズ島の近くに来ると「錨を下せ」という勝の凛とした声と共に鼓手の斉藤留蔵の小太鼓が鳴り、ゆっくりと錨を下した。船の前帆柱には日の丸、中央帆柱の上には幕府旗印の中黒の吹き流し、後帆柱には鑑将木村摂津守の家紋丸に松皮菱の旗が潮風に翻っていた。

 埠頭を見ると、今にも海に落ちそうな位に人が集まっていた。凄い歓声が聞こえる。大勢のサンフランシスコ市民が手を振って歓迎してくれている。事前にワシントンから連絡を受けていた市長が、歓迎の準備をしていたからだ。

 アメリカ人からすれば、日本という東洋の異国から初めて太平洋を渡り来航してくる噂は、余程の興味と物珍しい日本人を一目見ようと集まってきた群集で埋め尽くすのは当然であった。

 サンフランシスコは、十年前のゴールドラッシュで急激に栄えた都市である。金が発掘される噂が流れると、それまで数百人の人口が一気に六万人に膨れ上がったのだ。ブームが去った後も街は交易の中心地となり、温暖な気候もあって今もアメリカの主要都市となっている。これにより、当時の街並みには四、五階建ての建物など日本人にとっては、どこも目を見張る物ばかりだった。

船の上で勝は佐々倉を呼んだ

「お前、ふたりばかり供を連れて先に市長のところへ挨拶に行け。浜口と吉岡でいいだろう。それにブルック大尉と中浜に同行をお願いしろ。上陸はそれからだ」

「はっ、わかりました」

「それから、船の中の病人を一刻も早く、医者に見せて手当を受けさせるよう手配してくれ」

 勝は今にも息を引き取りそうな富蔵を早く何とかしてやりたかった。この後すぐブルック大尉が市の役人と連絡をとり、この衰弱した水夫たちを海軍病院に連れていく指示をした。他にも不調を訴える者があり、計十五名が即入院した。

 佐々倉たちは、市長のデシェメカーに迎えられ、そのままインターナショナル・ホテルに宿泊し戻らなかった。

 咸臨丸では次の日、早朝に斉藤留蔵の起床の小太鼓を鳴らすと、全員甲板に集まった。初めて異国で迎える朝だった。「御旗引揚げ」の声がすると、日の丸がするすると揚がり朝日に照らされた。

 勝と木村の顔に爽やかな風が吹いた。改めてアメリカに着いたという実感がわいてきた。

「只今、戻りました」

昨日、市長へ挨拶に行きそのままホテルに宿泊した佐々倉たちが戻ってきた。

「勝艦長、市長が今日の午後一時に歓迎のためにこの艦に参るそうです」

と報告したあと、

「いやあ、昨日は色々と驚くことばかりでした。どこに行っても人だらけで、特にこの国の女は図々しく何やら喋って皆、手を握ってきやがる。わしの頭を見てクスクス笑う奴もおるし、中には物珍しそうに裾を引っ張ってくる奴もいた。本当に無礼な奴らだ」

勝はにやにやしながら聞いていた。

「旅館に行った時もびっくりした。でかい赤い絨毯が敷詰められており、わしらが草履を脱ごうとすると奴らはその上を土足のまま平然と歩いているのだ。それと、天井や壁にたくさんの灯が付けてあるんだ。わしはロウソクにしては随分明るいと思っておったら、それはガス燈って云うらしい。まあ、わしにはよくわからなかったが。それから夕飯を用意してくれたのだが、最初に白い汁を一口飲んで気持ちが悪くなった。何か乳臭くて吉岡はそのまま吐き出してやがった」

そう言っていかにも不平そうだった。吉岡も、あれは本当にまずかったと顔をしかめた。

 

 午後一時に市長がきて歓迎の挨拶をした。歓迎の晩餐を用意しているので、それまでホテルで寛いで下さいと言う。木村は断っては申し訳ないと、市長の後についてボートで波止場に行った。

 そこで初めて二頭立ての馬車に乗った。道ばたは山のような人だかりだ。妙な眼の色をして、金髪や赤毛の髪でこっちを見ている女性もいた。歓迎されているのは分るのだが、あまり気持ちの良いものではなかった。

 インターナショナル・ホテルに着くと、案の定、女性が男たちを押しのけ目立っていた。

「どうして、この国は身の程をわきまえない女が多いのだ」

木村が万次郎に聞くと、

アメリカではレディファーストといって女性を尊重して何事にも優先させる事がこの国の礼儀なのです。男性の女性に対する思いやりでしょう。決して女性が出しゃばる訳ではないのです」

「なるほど、日本では、身分で格差を付けたり、男が女を軽視する傾向がある。これは改めなければ、ならぬかもしれぬな」

「はい、男女が平等という考えですね」

 新聞社が各社押しかけてきた。特に木村摂津守の正装姿に皆、興味をもって次々と質問してきた。この日の身なりは紺の着物羽織、金の羽織紐、縞の袴、白の足袋、脇差、印籠など、どれをとってもアメリカ人の目には第一級の工芸品に見えたのだろう。

 夕方になり、市職員に案内され市庁舎に着くと、二階に通じる屋外の階段まで庁舎からあふれたサンフランシスコ市民がぎっしり埋まっていた。壇上に木村を導いた市長は、しっかりと握手をした。その時、木村は懐から英文の名刺を取り出し市長へ渡し、万次郎の通訳で自己紹介をした。名刺には「KIM-MOO-RAH-SET-TO-NO-KAMI」と印刷してある。おそらく、これが名刺をだした最初の日本人だろう。市長と木村の握手と名刺交換が済むと、木村は市の幹部たちと日本の士官たちとも握手をして欲しいと申し入れた。更に屋外にいるサンフランシスコ市民の人たちも部屋に招き入れ、日米両国民の交歓の場にして欲しいと提案した。

 すると、会場内外の百人を超えるアメリカ人たちは皆、この木村の好意的な配慮に感激し、会場は割れんばかりの拍手が沸き起こった。会場の友好ムードが一気に盛り上がった。

 一連のセレモニーが終ると、木村たち一行は近くのホテルに用意された宴席に招待された。大層な御馳走が出てきた。口に合わない物もあれば、今までに食べた事のない美味しい肉料理が次々と出てきた。箸が用意されておらず、仕方なく見よう見まねでナイフとフォークを使って食べた。中には、どれも口に合わずパンに砂糖を足してやっと空腹を満たしている者もいた。

 そもそも、当時の日本では牛や豚などの肉類は殆ど食べてはいなかったのだ。それでも泡がでるシャンペンというお酒は美味だった。差しつ差されつの賑いが始まった。一行はまたダンスを見せられた。男女が妙な風をしてホール中を飛び廻るその様子が可笑しくて堪らなかったが、皆必死で笑いをこらえた。会が盛り上がったところでサンフランシスコ市長が立ち上がり、

「日本の皇帝とアメリカ大統領の健康を祝して乾杯」

と、杯を高く挙げ、乾杯の音頭をとった。その後も木村総督には大勢の男性と女性が次々と挨拶にきた。木村はさすがに疲れ切って小声で「勝さん、勝さん、帰りましょう」と促した。市長からは是非泊って下さいと言ってきたが、気疲れしたせいか、結局皆揃って咸臨丸に帰ったのだった。

 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その32

 咸臨丸は、その後も風波と闘いながら、北緯四十度線を東へ東へと進んだ。速度は一日に数十キロの日もあれば、二五十キロ以上進む日もあった。

ブルック大尉は困り果てた。自分に指揮権がなく、日本の士官が長崎で習った命令はすべてオランダ語だったので、指示内容が中々伝わらないのだ。一番理解しているのは中浜万次郎だけだった。そこで、ブルック大尉の代わりに中浜が命令を出したところ、水夫たちは猛烈に反抗した。

「お前は、元々ただの漁師の小倅だろ。何を士官ヅラしてものを言っとるのか。わしらに命令するつもりか。これ以上、偉そうな事を言うと帆柱に吊るすぞ」

アメリカ寄りの万次郎を水夫の皆はよく思っていなかった。

 

 二月に入り、日付変更線を越えたあたりで、急に寒さが厳しくなった。濡れた衣服を外で乾かせる日も少なく、衣類は勿論、自分たちの身体を暖めるには船内の火鉢が欠かせなかった。皆の気持ちは寒さと船酔いで次第にイライラ感が募ってきた。北太平洋の荒れは想像を絶した。

 そんな中、アメリカ軍人が食事に不満を言い出したのだ。アメリカ人のコックから大波の影響でいつもの朝食が作れないと知らされ、仕方なくまずい日本食を食べさせられた事にアメリカ軍人と日本人との争いが端を発した。彼らの間では、それまでも何度か悶着が起きていた。言葉の行き違いが原因だが、そのたびに中浜万次郎が中に入り、何とか収めたものの、たがいにイライラが高じて、それが爆発したともとれる。

 心配していた飲料水が不足してきた。この報告を受けた勝は、一日の使用量と使用目的について厳しく規則を作った。水はかなり貴重となり、飲み水は今までの半分に減らし、洗濯も最低限とした。

 久しぶりに雨風が和らぎ、甲板には大勢の乗組員が暖かい陽を浴びていた。すると、その中に鉄砲方の森勘次郎と水夫がアメリカ水兵と何やら言い争いをしていた。言い争いといってもお互い言葉が通じず、ただ罵声をあびせているだけだった。水夫のひとりが

「おい音吉、小野様と万次郎を呼んで来い」

音吉と呼ばれた水夫はすぐさま、二人を連れて甲板に戻ってきた。

「森、どうした」

「あ、小野様、聞いてください。こいつが貴重な水を盗んでいるところを、この音吉が目撃したって言うんです。このアメリカ人に問い詰めているのですが、話が通じないので困っています」

すると音吉が

「間違いねえです。おら、この目で確かに見たんでさあ」

「うむ、万次郎、今の話が真かどうか、そ奴に聞いてみてくれ」

万次郎は、首肯くと、そのアメリカ水兵に流暢な英語で話をきいた。そして小野に向かい、

「この水兵は、フランク・コールという名で、この者が言うには、決して水など盗んでいないと言い張っております。いいがかりを言うなと逆に怒っております」

「万次郎、おめえアメリカ人の肩を持つ気か。嘘をいうとおめえも勘弁ならねえぞ」

と誰かが叫んだ。

 この騒ぎに周りにいた人が集まってきた。そこに人垣を分けて入ってきたのはブルック大尉だった。万次郎は事のいきさつをブルック大尉に説明した。すると、ブルック大尉はその水兵と何やら話していたが、やがて水兵は黙ってうなだれてしまった。そして、万次郎にむかって皆へ話して欲しいと言った。それを聞いた万次郎は驚いてしばらく黙り込んでしまった。やがて万次郎が口を開いた。

「ブルックさんが言うには、確かにフランクはどうしても水が欲しく盗んだのは確かだと言っています。仲間の具合が悪く、水を飲ませたり、嘔吐で汚した衣服やベッド毛布を洗うため、やむを得ず水を盗んだと言っています。しかし、どんな理由があるにせよ、貴重な水を盗んだことはアメリカ海軍として規律を破ったことになります。従ってこの罪は重く、日本人の乗組員の気が済むように、彼を銃殺して欲しいと言っています」

更に万次郎は言った。

「その際、部下の行なった過ちは上官である私の責任でもあるので、私も一緒に銃殺して欲しいと言っています」

それを聞いた周りの乗組員は誰もが沈黙した。しばらくして小野が皆に云った。

「おい皆、今回はブルックさんに免じて許してあげようじゃねえか。考えてもみろ、最初はこの咸臨丸で俺たち日本人だけの力で太平洋を渡ろうと息巻いていたが、ざまぁねえや。このブルックさんやアメリカの水兵さんたちに助けてもらわなければ、到底(とうてい)無理だったに違いねえ。お前たちだって、アメリカ人から色々船の操作を教えてもらったから、ここまで来たんじゃねえのか」

 事実、最初は全く船酔いでやる気がなくアメリカ人を頼り切っていた乗組員も経験を積むに従って腕をあげ、自分たちで船を操ることが出来るようになってきたのである。小野がはなし終わると誰一人、文句を言う者はいなかった。福沢もこの一部始終を見ていており、木村に報告した。

勝の耳にも、当然この話は入った。勝は同乗していた医者の牧山(まきやま)修(しゅう)卿(けい)の看病もあり、体調は頗る回復してきたのである。勝は部屋にブルック大尉を呼び、改めて丁寧にお礼を述べた。万次郎も同席させ通訳を頼み、軍艦の造船技術や購入方法など詳しく聞き取りした。ブルックもこれに応え、出来る限り説明し、ふたりの親交も深めていった。

 二十四日、測量方の小野友五郎が

アメリカ西海岸まで一二〇里(約四八〇キロ)ばかり。順調に行けば、あと二日で到着する』

と貼り紙をすると、船内は沸(わ)き上がった。だが、ブルック大尉は、あと三日はかかるだろうと否定した。しかし、二十六日早朝、小野の推測通り、遙か東の方向に飛んでいる海鳥(カモメ)が見えた。そして、やがて待望のカリフォルニアの大地が霞(かす)んで見えたのだ。小野の推測がブルックを凌(しの)いだというので乗組員たちが感激し、胸を張った。

 勝が嘘のように元気になって甲板に出てきている。陸地が見えると、砲術方の佐々倉義行を呼んだ。

「佐々倉、大砲の準備をしろ。祝砲だ、祝砲を射て」

勝は甲高く叫んで高く手を上げた。ドーンと最初の一発が放たれた。同じ間隔を措き続いてドーン、ドーンと二十一発の祝砲がサンフランシスコ湾に轟(とどろ)き渡った。乗組員は誰もが何も言わず聞いていた。皆、胸に熱いものがこみ上げていたのだ。

安政七年二月二十六日(太陽暦三月十七日)午後一時、咸臨丸はサンフランシスコ湾内に推進した。

 実に三十八日間に及ぶ長い航海であった。この間、晴れた日はわずか七日だけで、如何に悪天候の連続だったことがわかる。この暴風雨が続く中、無寄港で太平洋を横断した偉業はブルック大尉にとっても初めての経験であった。

 しかし、この厳しい航海中に病気で倒れた者も大勢いた。それは、苛酷な労働と寒さと栄養不足で衰弱した水夫や火焚(ひたき)たちであった。その中でも最も重労働に喘いでいたのが火焚(ボイラー)の峰吉だ。峰吉は狭くて熱い船底で働き詰めだった。そんな苛酷な仕事中に熱病にかかり、殆ど寝ている状態だった。峰吉は長崎海軍伝習所の一期生で勝とは長いつきあいである。

そして、やはり熱病で倒れたふたりの水夫がいる。勝が長崎から江戸に戻る途中、塩飽島で一時帰郷を許した者たちだった。平田富蔵と岡田源之助である。特に富蔵は衰弱が酷く、見るも痛々しかった。

サンフランシスコ湾 

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その31

 福沢諭吉は後の慶應義塾創立者である。天保五年(一八三四年)大阪の中津藩蔵屋敷で下級藩士の福沢百助の次男として生まれたが、二歳の時に死別。安政元年、長崎に蘭学修業後、緒方洪庵塾に入門。安政四年、藩命で築地鉄砲洲にある江戸中津藩屋敷に住み蘭学塾を開いた。これが後の慶応義塾に展開する事となるのだった。

 当時の日本では、オランダだけが鎖国の唯一例外の国であった為、オランダ語を学んだが、世界に通用するのは英語であることを痛感し、蘭学から英学に転じていったのだ。そんな時福沢は、日本が渡米する計画があることを知ると、自分もアメリカへ行きたいと切望するようになった。

海軍操練所に伝手のない福沢は、当時出入りしていた将軍家代々の奥医者桂川国興に相談した。

 桂川の妻が軍艦奉行木村摂津守の姉久邇(くに)であったからである。こうして、桂川の紹介で福沢は木村に面会すると、アメリカに渡り勉強したい気持ちを得々と話した。これを聞いた木村は思った。こんな時、今は亡き老中阿部様だったらどう考えるのだろうか、きっと将来の日本を背負っていくのは、こういう若者だろう、この様な若者を人材育成しないでどうするのかと。

 そこで、木村摂津守は福沢を自分の従者として乗船する事を許したのだ。そして、航海中は、福沢は船に酔うこともなく、体調の悪い木村を介抱し飲食や衣服のことなど身のまわりの世話を小まめにしたのだった。福沢の献身的な行為は木村と主従関係をも超える間柄となった。

 こうして、木村はその数年後大成する福沢諭吉の人生の契機を開いたのだ。日本に帰国してからも二人は生涯にわたり深い親交を結ぶのであった。

 

 二十三日の夜になって、あれほど吹きすさんでいた風がやみ、月が出た。だが乗組員はベッドに寝たままだった。そして、二十四日午後になると波も穏やかになり、乗組員たちも少しずつ精気を取り戻し、仕事に就きだした。二十七日になってまた天候が急変した。風波が激しくなり、甲板が一面水浸しとなった。水夫も甲板にでたものの皆、端のほうで固まっていた。船内でも相変わらず火鉢を囲んでお茶ばかり飲んでいた。

 ブルック大尉が唯一、感心した人物がいた。それは測量術に関する能力がひときわ高く、数学を得意とした小野友五郎だった。小野は天文方出役として勝と共に長崎海軍伝習の第一期生として最年長(四十四歳)で周囲からも信頼が厚く、有能であった。咸臨丸においても、緯度や経度を正確に測り、自船の位置を的確に捉えていた。この太平洋横断は予想以上の困難な航海であったが、小野の奮闘ぶりは実に目覚ましいものがあり、ブルック大尉も大いに賞賛した。

 もう一人、ブルック大尉を大いに助けた者がいる。通弁役の中浜万次郎である。彼自身は元々土佐の漁師だった。十四歳の頃、仲間と漁に出かけた時に暴風雨に遭って漂流し無人島に漂着。そしてアメリカの捕鯨船に助けられた。船長は万次郎の聡明さを見抜き、そのままアメリカの学校に入れ、教育を受けさせた。英語の他に測量、航海術、造船などを学びアメリカの捕鯨船の副船長にもなった経歴もある。

 その後、万次郎は十年ぶりに帰郷した。当時、日本では外国から戻ると死罪だったが、海外の事情に詳しかったので、幕府の命により幕臣となった。そして今回、咸臨丸の通弁役として乗組員に加わったのであった。

その万次郎は、ブルック大尉の航海上の指示を的確に日本人乗務員伝えるのが役目だった。英語も出来、航海術も得ている万次郎は咸臨丸に於いて欠かすことの出来ない存在になった。

 

 船は相変わらず艦長室で寝込んでいる勝を上下左右に弄んでいる。徐々に勝の我慢が限度に達したころである。勝はよろよろと立ち上がり、木村の部屋に向かった。頭は高熱で朦朧とし、目は虚ろになっている。

「木村さん、おいら、もう江戸に戻りてえ。すまねえが、端船(ボート)を出してもらえんか」

「勝さん、馬鹿なことを言わないでください。ここをどこだと思っているのですか。太平洋の真ん中ですよ」

「そんなこたあ、わかっている。だが、どうにもこうにも、このままだと、おいら気が狂いそうだ。頼むから江戸に帰してくれ」

子供の様にわがままを言って木村を困らせた。

ようやく、宥めながら、勝を部屋まで送り返すと、それに伴っていた福沢が呆れた顔で

「木村様、あの勝艦長は一体どういうつもりでしょうか。艦長なのに一度も操舵室に行かず部屋で寝てばかりです。それにあのわがままぶりは、まったく許せない言動ではないでしょうか」

「まあ、福沢、そう言うな。病人だから仕方あるまい。あれでも、本心は誰よりもアメリカ行きを望んでいるのだ。この咸臨丸で行けるようになったのは勝さんのお陰でもあるからなあ」

とは言うものの、木村も実は早くこの地獄のような船酔いから逃れたい気持ちでいっぱいであった。

       福沢諭吉       中浜万次郎(ジョン万次郎)

小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その30

 咸臨丸

 一月十二日夜、木村は築地の軍艦操練所からボートで品川沖に停泊中の咸臨丸に乗り込んだ。最後まで見送ってくれたのは父の木村喜彦と姉の久邇(くに)だった。木村は三千両もの大金を協力してくれた父に改めて感謝し涙ぐんだ。その家族とは今朝、涙して水盃を交わした。これが最後かもしれないという想いが心に秘めていたからである。

 木村が船内に入ると、勝は既に乗船しており部屋で寝ていた。また熱がぶり返し、具合が悪そうだった。十三日の朝、咸臨丸は品川から横浜港に寄り、そこでブルック大尉ら十一人を乗せた。横浜港には船が多く、その隙間をくねくねと上手に擦り抜けた。運用方鈴藤勇次郎の舵取りはさすがだ。

ブルック大尉も日本人の舵取りが意外に上手だったので、この調子ならと少し安堵した。

十六日夕刻、浦賀に寄港した。そこで水と生鮮食料品などの補給品を三日間かけて積み込んだ。

 十九日、浦賀を出港。咸臨丸の帆先には大きな日の丸が翻っていた。いよいよ、アメリカにむけて長い航海が始まった。少し風が強かったが空は快晴だった。はるか西には雪で化粧した富士山が見えた。

 一方、使節団を乗せたポーハタン号の出航日は三日遅れの一月二十二日。アメリカ本国艦隊の精鋭艦ともいえるこの軍艦は咸臨丸と比べると、はるかに安定感があり、重量三七六五トン、速力十一ノットとかなり性能がよい。

 この船には、正使の新見正興及び副使の村垣範正、そして目付の小栗忠順の三人を含め八十人の遣米使節団を乗せていた。目的は日米修好通商条約の批准書を交わすことである。随行船と違い、こちらはアメリカに招かれた使節一行であった為、いわゆるお客様扱いである。咸臨丸と違い、船を操行する者は一切いない。殆どが新見や村垣ら三人の従者などだ。なぜ、こんな大人数の従者が必要だったのかは理解できない。おそらく、護衛とは名ばかりで、初めての異国を直に見たいという好奇心だけだろう。しかし、この若い従者たちの中から、明治以降になって活躍する人物を多く輩出したのだった。

 一方、咸臨丸の二日目は昨日と打って変わって、黒い大きな雲が重く圧し掛かかっていた。雪も風にあおられ舞っていた。寒さも身にしみるのだが、暖房器具は火鉢だけだった。皆、殆ど茶ばかり飲んでいた。

 勝は咸臨丸を操船するための航海当番を決めた。士官が二人一組となり四時間交代で勤務に就くように割り当てていた。編成は次の通りであった。運用方とは船の舵取り役のことである。

第一番 佐々倉桐太郎(運用方)  赤松大三郎(測量方)

第二番 鈴藤勇太郎 (運用方)  松岡磐吉 (測量方兼運用方)

第三番 浜口興右衛門(運用方)  小野友五郎(測量方兼運用方)

第四番 根津欽次郎 (運用方)  伴鉄太郎 (測量方兼運用方)

最初の佐々倉・赤松組が正午から午後四時まで当直を務め、その四時間ごとに当番を交代した。

 佐々倉達はいきなり強烈な風波の洗礼を受けた。この日は西からの季節風が強く吹き付けていた。沖合に出た咸臨丸は蒸気を用い、針路を南東にとったが、この年は記録的な季節風で荒れ、いきなり困難な航海が始まった。翌日、今度は東北に進路を変えた。船は黒潮の急流に遮られて激しく翻弄された。翌二十二日、二十三日と雨風は更に強くなり、とうとう後部の帆柱の帆が破られてしまった。

 連日の激しい風波で船酔いが続出した。真っ先に倒れたのは艦長の勝麟太郎だった。勝は高熱のまま船に乗り込んで以来、体力を消耗していた。もともと、勝は船に強い方ではなかったが出航以来、ずっと艦長室に籠りっぱなしだった。木村総督や士官はじめ乗組員の殆どが船酔いで寝込んでしまい、食事もとることが出来なかったのだ。あれ程、日本人だけで太平洋を乗り切ってやるとか、アメリカ人なんかを頼りにしないと粋がっていた彼らがこのざまなのである。

 折角、決めた組編成も五日目あたりから、休む者ばかりで大きく崩れてしまった。ブルック大尉は早くからこれを予想しており、アメリカ水兵六人を二班に分けて咸臨丸の操舵や見張りに付かせていた。かれらは長年の経験を積んでおり、ある程度の高波は全く平気だったので、煙草をふかしながら、動けなくなった日本人を冷ややかな目で見ていた。日本人で船酔いせずに働いていたのは、測量方の小野友五郎と通弁の中浜万次郎、そして福沢諭吉の三人だけだった。

 前列中央 小野友五郎