小説 万延1860 ~海を渡ったサムライたち~ その14

老中首座堀田が京から失意のまま城に戻ったその日、老中松平忠固(ただかた)が江戸城を出て彦根藩井伊家上屋敷に着いたのは、もうあたりが薄暗くなった時刻だった。客間に通されると、すぐに井伊直弼が姿を見せた。

「これは松平忠固様、わざわざお越し頂き、如何なされましたか」

目の前の茶を勧めながら言った。

「いや、突然訪れ、ご迷惑でござったかな」

「とんでもござりませぬ。もしや堀田殿のご上洛の件でござりますか。もう京よりお戻りなされましたか」

「相変わらず、御察しが宜しいですな」

少し苦笑いをして見せた。

「堀田殿がおっしゃるには、九条関白様からも条約勅許の口添えをして頂いたが、全く聞き入れて頂けず、逆に岩倉卿からは開国などとんでもござらんと叱咤(しった)されてお戻りになられたとの事だ」

忠固は苦々しい顔で話をした。

「うむ、他国との貿易は幕府においても必ず有益な事と思われるが、やはり朝廷のお許しが無い事にはのう。何としてでも勅許を頂けるための策を講じなければなりませんな」

「井伊殿、そこで少々内密な話をしに参ったのだが」

忠固は声を落とした。

「この度の事で、わしはこの一件これ以上、堀田殿に託するのは無理と思うておる」

「ついては、井伊殿、どうだろう、貴公に改めて勅許交渉役を願いたいと思っているのだが」

井伊は困惑した顔で

「私にと申されましたか」

「そうじゃ、ついては貴公に大老の職に就いて頂こうと考えておる」

井伊は忠固の本意がまだ掴(つか)めなかった。

「すでに阿部様もお亡くなり、今は堀田殿が老中の首座であるが、これからの幕府を仕切っていけそうもない。ついては、この先、井伊殿が大老となり、わしが老中首座となって改めて勅許を賜わろうと思うておるのじゃよ。なに、返事は直ぐとは言わぬ。暫く考えてはくれぬかのう」

と言うと、その後忠固は長居をせずに帰って行った。

老中松平忠固が屋敷を去った後、井伊はひとり座敷で目を閉じ、何かを案じていた。そして徐に襖に向かって声をかけた。

「長野、今の話聞いておったか」

「ははっ」

襖が開いて男が入ってきた。名は長野主膳義言、井伊直弼の右腕となる彦根藩家臣である。井伊の言付けで、隣の部屋で密かに控えていたのだ。長野主膳は更に近寄り

「井伊様、今の忠固殿の話、お引き受けなさるおつもりですか」

「なんの、あの方の腹は見えておる、わしを使って、堀田殿を引きずり下ろし、自分が老中首座の地位に就くつもりであろう」

「いかにも、その様でございますな」

「ふん、あの方の手など借りぬ、小賢しいわ」井伊は吐き捨てる様に言った。

 

一橋慶喜の実父であり、水戸藩九代藩主の徳川斉昭の評判は不思議である。徹底した攘夷論者で、ペリー来航後、異船排除すべしと猛烈に主張し、幕府に建白書を提出すると「海防参与」となった。その後、百九十か所の寺院から釣鐘や仏像を没収し大砲を造るなど苛烈な一面をみせ「烈公」と称された。これを聞いた江戸っ子からは、大変な人気である。

「おい、とっつあん、聞いたかよ。水戸の斉昭様ってえのは、すげえもんだなあ。なんでも、あっちこっちの寺から釣鐘を集め、それを大砲に変えてよ、黒船の夷人野郎どもを追っ払おうって話だ。やることがいちいち派手じゃねえか。おいら、いっぺんに気に入っちまったぜ」

こんな調子で江戸っ子たちを沸かしている。

またその一方では、文武を学ぶ藩士の余暇休養の場として偕楽園を造成し、領民へも開放した為、領民からはもちろん江戸の庶民からはたいへん人気があった。実はその陰に学者でもある藤田東湖が斉昭の片腕となっていたからである。だが、その聡明な藤田東湖安政二年の大地震で早くも死去してしまった。

しかし、斉昭はその後も、幕政に口を出し過ぎ、大奥に対しては質素倹約を迫り、経費削減など締め付けを強めたので、現代で言うとセクハラ・パワハラで大奥からは酷く嫌われていた。

更に斉昭は好色家らしく十人の側室に男女合わせ三十七人の子供をもうけ、こともあろうに大奥で絶世の美女といわれた将軍徳川家斉の娘・峰姫の従女「唐橋」と密通し妊娠させてしまった。この斉昭の女癖の悪さが大奥から嫌われる最大の要因となった。この事から、大奥では水戸藩を憎み、息子である慶喜など次期将軍には絶対認めないという風潮になってしまったのである。これにより慶喜と大奥には確執が生まれ、この年から八年後(一八六六年)慶喜は十五代将軍となるのだが、歴代の中で唯一大奥に足を踏み入れなかった将軍でもある。

 徳川斉昭水戸藩主)